へイケー物語3章 諸行無常の響きに包まれて

50代の生き方
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私はすでに、閉経している。
かつては「閉経は女としての終わりだ」と思っていた。
それは人生の没落、まさにへイケ(イ)物語

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
 (更年期の声がしたら 私の体も変わっていく)
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
 (かつては花のように美しくかわいかったのに(?) 若いコには勝てない)
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし
 (あんなに若さを誇っていたのに まるで夢のよう)
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ
 (ぴちぴちだった私も衰えて ゴミ箱行きかい!)
 平家物語(ヘイケー物語 超訳:三生奈)

しかし、実は閉経でよかったことも多い。
閉経でよかった3つのことをまとめてみた。

1-ヘイケー、それは体の開放

あの頃あの日、私は辛かった

毎月来る女の子の日、それはとてつもなく憂鬱な時間だった。
若い頃の私は、それはそれは生理痛がひどく、薬を飲んでもどうしても効かないときもあり、七転八倒し、夜中は眠れず「誰か私を殺して!」と叫ぶほどだった(大げさ)。

今も昔も、女性にとってその辛さは変わらないかもしれないが、私の若い頃よりは今は、生理に対してずっとオープンに見える。

30年ほど前にもナプキンのCMは流れ、生理休暇も(建前上)存在していた。
だが、私の会社は零細企業で社長は男性。
しかも、絵に描いたような昭和の体育会系で「風邪は気合で治る」というような思考の持ち主。
そんな環境で生理休暇などとても言い出せず、生理の日も普通に会社に行っていたが、もちろん通常通り仕事などできず、しょっちゅう給湯室に行って、1人でうずくまっていた。
同世代の男性社員は薄々私がどういう状態か気付き、心配してくれたが、心配してくれたからといって何かが変わるわけでもなかった。

今、彼らがどこかの職場などで「そういえば昔の職場に生理痛がひどい女性がいたなあ」と覚えていてくれて、生理中の女性に優しくしてくれていたら、少しは私も報われるかもしれない。

生理痛のひどさもだが、その日を考慮しながら様々なスケジュールを立てるのも億劫だった。
女性なら多くの人がやってることだと思うが、スケジュール帳に生理予定日を記入しておく。
私の場合は割ときっちりと28日から30日周期で生理が来ていたので、わかりやすかったのだけは良かった。
生理のせいで予定をずらさざるを得ないのは面倒だったが、PMS(月経前症候群)はあまり感じず、生理痛そのものも、1~2日程度で収まっていたのも、よかったことだろう。

とはいえ、あの頃あの日、辛くて面倒だったのは事実だ。

そう、あの頃あの日、があった

あの頃あの日、確かに辛かった。痛かった。億劫だった。面倒だった。
それは、今となっては遠い過去のようで、あまり記憶もないのだが。

閉経すると、あの頃のあの日の辛さや煩わしさからは完全に開放される。
生理を気にして動く必要がないし、白いお洋服も着ることができるし、ナプキン代もかからない。
もちろん痛みもないから、月に1回の苦しみからも完全開放されている。

それは何て楽な人生なのだろう。
人生には他にも「辛く苦しいこと」はたくさんあるが、少なくとも「痛くない」ことは素晴らしい。

2-ヘイケー、それは人生の開放

あの日の終わり

閉経は、どちらかというと早い方だった。
大体50歳ぐらいで迎えるものだと思っていたが、40代後半ぐらいには徐々に終わりに近づき、はっきりと覚えてないのだが、48ぐらいで完全に終わってしまった気がする。
もしかしたらその前だったかもしれない。

そもそも、突然終わるものでもなく、いつしか終わっていた感じだったので、正確な時期はわからない。
健康診断などで記入欄があれば、48歳と書くことにしている。

あの日を超えても人は生きていける

子供を産まなかった私は、生殖機能を使うことなく一生を終えることになる。
(愛犬以外の)お母さんになることがなかったため、ずっと女性のまま中途半端に年を取ってきたような気がしていた。
閉経して、「私の人生は何だったのだろう」と考えた瞬間などなかったかと言えば、実はそうではなくて、わずかに寂しさやむなしさも感じた。

生物学的には、子供を作れない体になってしまったメスは生きる意味がない。
生殖機能が衰えると同時に命も終える生物も多い。

けれど、人間は違う。
人間には、生殖以外にも大切な何らかの使命があるから、その後の人生が長いという。
その後の人生とは、第二の新たな人生。

今の私には、祇園精舎の鐘の声は諸行無常ではなく、むしろ第二の人生のファンファーレ(Show go! Music go!…てな感じ?)のように聴こえる。

3-ヘイケー、それは心の解放

開放…という名の開き直り

生理がある間は、どこかで「女である自分」というのを意識していたような気がする。
自分自身でも他人からの視線に対しても、「若さ」とか「女」とか「美」とかなど、無意識に気を遣っていた。

だが、閉経した女になってからは、そういった「無意識の意識」みたいなわけのわからんものが、本当にどうでもよくなって、ものすごい開放感を覚えた。
「(生物学的に子を設ける役目がある)女としての終わり」かもしれないが、別にそうだからと言って、悲しむものでもないのではと、妙にあっさりと自分の体を受け入れている。

それは、「開き直り」ともいうが。
閉経前の自分は「俗世間」にいて、今は天国だかどこかの、苦しみから解放された極楽のような場所にいる気持ちだ。
もちろん、死んじゃいない。ちゃんと生きている。

開き直りとは新たな方向に扉を開けること

開き直ったといっても、実際には女を捨てることはない。
むしろ、これまで以上に見た目に気を遣い、美しい姿勢や仕草を心がけ、美しい人を目指したい。
自分のためにおしゃれをする。
自分のために生きられる。

開き直るとはあきらめではなく、新たな方向に扉を開けること、そんな気がする。