想い出の品を断捨離する! モノではなく思いを大切に

断捨離の時間
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断捨離を行うにあたり、難しいのが「思い出」の処分だ。
想い出(過去)を振り返りたくないとか、思い入れを持たないという理由で、手紙も写真もかつて大切にしていたものも簡単に処分できる、という人もいる。
しかし、私は真逆で、本当にくだらなく、価値もなく、ボロボロになったものであっても、そこに「思い出」を感じて何でもとっておいた。

それは、母の行動が大きく影響しているのだろう。
私の幼少時から母は、幼稚園で描いた絵や作った作品などを「思い出箱」にいろいろと保管してくれていた。
私は子供の頃から、それらを時々取り出して懐かしむのが好きだった。
そして、自分自身も「思い出の品」を「思い出箱」に入れていくようになった。

思い出箱には、学校で作った図工作品、作文、テスト、通知表、友達からの手紙、文集、体育祭のハチマキ、大学時代にバイトした時にもらったお給料袋…と、ありとあらゆる思い出の品を詰め込んでいた。
何度か引越をしたが、そのたびに箱も一緒に連れて行く。
新居には必ず「思い出の箱を置く場所」も確保する。
平成が終わろうとするころまで、ずっとそんな風にしてきて、想い出の箱は増える一方だった。

それを「断捨離」するというのは、自分にとって簡単な作業ではなかった。
しかし、今はきちんと「思い出の品」と向き合い、時間を見つけては少しずつ溜め込んでいたものを整理している。

今回は、思い出の品を断捨離することについて書いてみた。

想い出を保管しておく理由

二度と手に入らないから

想い出の品を捨てられない大きな理由は、手放してしまうと二度と手に入らないものだから。
卒業アルバムなど、同級生の誰かが所有しているものなら別だが、この世で自分だけしかもっていないものが、思い出の品にはとても多い。
今、それらを手にとっても「あの時はこうだった」「こんなことがあったな」という感情や記憶があふれ、私はどうしてもそれらを捨てられなかった。

思い出というのは、他人には絶対に侵害できない自分だけの領域。
その、世界にたった一つしかないものを処分するのは、やはり辛いこと。
災害などで一瞬にしてそれらを失った人々のことを思う時、心苦しくなってしまうのは、その辛さを自分のことのように感じられるからだ。

何かに使うから

どこかにも書いたが、私のかつての夢は「物を書く人」になること(書くだけなら今こうして書いているので、その夢は達成できたことにはなるが)。
思い出の品をとっておいたのは、将来、物書きをする時に何かのヒントになるかもしれないと思っていたからでもある。

ちなみに、今はプロの物書きになることは目指していないが、やはり「物を書く」のは続けたいので、ネタになる「思い出」は処分できずにいた。

「思い出の品」は最後はどうなる?

自分が死んだら…どうなるのか

自分が死んだらどうなるのか…思い出の品を延々と溜め込んできたある日、ある時思った。

様々なものを箱に詰め「自分が死んだらこの箱ごと処分して」と書いているという友人もいた。
確かに、それはベストである…が、それは場所を取るのだ
我が家の一部を、彼らが占領する。
そして、膨大な「過去」という時間が、自分の時間を占領していく

私が後期高齢者であれば別だが、今はまだ現役世代であり、思い出だけにしがみついて生きていくには早すぎる。
いま大切なこと、これから取り組んでみたいことも沢山ある。

「これまで歩んできた証」と「これから歩んでいくための道標」の二つを天秤にかけてみる。
そんなの、どちらも捨てられない、というのがこれまでの自分だった。確かにそれはそう。

しかし、それは過去と未来の二つを天秤にかけたとき、未来の方が多くて過去が少なかった年齢だったから言えたことだ。
未来が過去よりも短くなる可能性が格段に上がってしまっている今、このままだと過去に未来が侵略されてしまう。

未来のための場所を作るため、過去は処分すべきではないか…ふと、そんな発想になった。
自分が保管しているものは、場所だけでなく、常に意識のどこかを占めており、それが行く手を阻んでしまう。

モノはモノでしかないと受け止める

モノはモノでしかない

昨日や今日から自分と暮らし始めたばかりの物ならともかく、相当な年数を共に同じ家で過ごし、情念やときめきや苦しみさえも詰まった、いわば私の分身ともいえるような「思い出の品」は、「未来のために」などというかっこいい理由をもってしても、なかなか処分する心情にはならない。

あの日もらった贈り物や手紙。
頑張ったテストの結果。
正直、描いた時のことなど覚えていないが、何となく当時の気持ちが伝わってくる幼少時の絵画。
どれもこれも、すべて自分の大切な歴史の一つ。
それは、自分が自分であることの、証。

もちろん、それらが他人にとっては無価値でガラクタで、一言で言って「ゴミ」であることはわかっている。
せめて最後はリサイクルにでも…と思っていても、個人情報が入っていたり、年季が入りすぎていたリスものばかりで、廃品回収に出すことすらできない。

しかし…よくよく考えてみると、証として私の手元にあるのは「物」だけなのだ。

高校時代のクラスメイトからもらったコアラのマスコットも、頑張って作った手芸の作品も、初恋の人からの年賀状も、たくさんの手紙も、それは単なるプラスチックで布で紙でしかない。
自分以外の誰かを幸福にするものでもなく、これらの大切な思い出の品に、誰かが勝手なストーリーをつけて解釈する可能性だってある。
そうなれば、「思い出の品」は、私の思いとは全く違うものになってしまう。

つまりは、私が大切にしているのは、物そのものではなく「思い」なのだ
思い出の品にはとてつもない思いが込められているのだが、物は物なのだ。
やっとそのことに気づいた。

思いは捨てたくないし、自分にとってとても大切であることは、生涯覆すことのできない事実。
それならば、私がすべきことは、モノをとっておくことではなく、思いを大切にすること。

現代だからこそできる! 思い出の品ではなく「思い出」を残す方法

モノではなく思いを大切にする

思い出の品ではなく思いを大切にする…
思い出の品には実体があるから、保管場所や管理だし、保管している場所には「気」がこもってしまう。
では、実体をなくし、保管場所も管理も楽にすれば「気」も、籠らない
そこで、思い出は大切にしつつ、思い出の品を手放してみる。

思い出の品を処分しようと思い立って、改めて手に取ってみると「取っておいた意味」もくっきり炙り出される。
残念ながら、なぜ大事にしていたのか、その理由が思い出せないものもたくさんあった。
多分、私が捨てられなかったのは、その時は大切な理由があったからなのだろうが、今となってはわからない。

それらも含めて、思い出の品を断捨離するのだ。

写真に撮る

時は令和、21世紀になって20年以上も経過している。
思い出の品を手放すときの最も簡単な方法が「写真で残す」ことだ。
スマホのカメラ機能も劇的に進化しており、しかも膨大なデータをまとめることができる。

文字が中心のもの、例えば作文だったり手紙だったりは、「中身が分かればよい」ので、多少雑に撮影しても構わない。
プレゼントだったりお土産だったりは、ちょっと角度を研究しながら、写真家気取りで撮ってみる。
データをPCに取り込み、タイトルをつけると整理もしやすい。
そして…撮影が済んだものは感謝を込めて処分する。

時間はかかる作業だが、これで「モノ」は処分できるし、自分の死後に片付ける人にも「データは消去してください」の一言を告げれば、手間をかけることもない。

文章にする

撮った写真はPCやスマホのデータホルダーに保管し、時々眺める、という楽しみ方でもよいが、「物書き」を目指していた自分としては、今後エピソードを書いていきたい。
または、その写真をブログなどで公開するという手もある。

「思い出」をとっておきたいという気持ちは、「あのときの気持ち」を大事にしたいから。
だから、その気持ちと一緒に写真を「保存」することで、「あのとき」を優しく振り返ることができる。

「物」には思い切ってさよなら…。
想い出は、美しく残せばそれでよい。

手紙と手帳と日記を断捨離する

手紙は他の誰かと自分とのつながり

手紙を処分する時、一抹の寂しさと罪悪感と痛みを覚える。
それらは、自分が確かにあの日生きていたことを教えてくれる。これまで出逢ってきた人々が、手紙を書く瞬間だけは、私のことを考えてくれている
手紙にはやはり思いがこもっているから、もらった手紙や年賀状は、これまでほぼ捨てることはなかった。

だが、手紙も撮影して処分する。
いつでも読み返せるよう、一枚一枚丁寧に広げて撮影していった。

手紙ならまだしも、私はすべての年賀状も保管していた。年賀状も手紙の一種だから、手紙を捨てられないのと同じ理由だと思い当たったが、年賀状は厳密には手紙ではない。
年賀状の一部は、私のことを思い、何らかの意図を持ってしたためられたものだが、「新年の始まり」という理由だけで挨拶文のみを書かれたものも多い。
もちろん、年賀状には「マーキング(生存確認)」という要素があるので、年賀状そのものが無駄だとは言えないが、要するにお手紙ではないのだ。

となると、保管する理由は「後で見直す」ため? 
いや、見直すほどの内容は書かれていないことが多い。
そんなわけで年賀状は「全捨て」できるものなのだ。
これも一応は写真に収めた。

忘れてしまった人たちの存在

手紙や年賀状を整理していると、今となっては名前を見ても誰だか思い出せない人や、1年限りで年賀状をやりとりする関係を終わらせてしまった人、義理として礼儀としてはがきを送っていた人、様々な人がそこには存在している。

色々な人が自分の人生をかすめてきたのだ。
彼らは今、どこで何をしているのかわからない。
少なくとも、今の自分の生活にダイレクトにつながっていない。

私は自分が付き合いたい人を分けて、それ以外と別れてきたのだ。
人生は出会いと別れの繰り返し、そんなことを「誰だか忘れてしまった人からの年賀状」が教えてくれる。

もしかしたらこれから生きる中で、再度巡り合うこともあるかもしれない。
けれど、もしもそんな時が来たら、次に出会うときは、新しい自分として新しい時間を作っていきたい。

手帳と日記を処分するとっておきの方法とは…

私が最も捨てられないものは、手帳と日記である。
手紙が「他人と自分」を結ぶものだとしたら、手帳や日記は「過去と今」を結ぶものだ。

過去に自分がどんな生活を送り何を考えてきたが、手帳にぽつぽつと記されている。
かつて自分がどんな毎日を送っていたかが、手帳は語る。
思いというより、自分自身の人生がそこには詰まっているようで、手帳を処分したら二度と過去へ向かうタイムマシンには乗れない気がするのだ。

手帳や日記を処分するためのとっておきの方法がある。それは…!
と書きたいところだが、実は未だに未練があり何も手を付けていない。

今の自分にとっての最大の処分の方法は、箱に入れて「私が死んだら中身を見ずに処分してください」と書いておくことくらいだ。
手帳や日記のみなら、ある程度量も抑えられる。
本当に中身を見ずに処分してくれるかどうかだけが気がかりだが、その頃には自分の意識はこの世にない。
この場合のリスクヘッジは「開き直る」ことしかないが、致し方ない。
「捨てられない」ことも、断捨離の一つ。