物欲はないのにモノが多い人の3つの言い訳

断捨離の時間
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断捨離に「向いている」「向いていない」人がいるかどうかはわからない。
「得意」「不得意」があるかどうかも知らない。
だが、もしも断捨離能力というのがあるとすれば、自分は間違いなく「向いていない」し「不得意」である。

物欲はないのにモノが多い(多かった)人間の、しょうもなさすぎる3つの言い訳についてまとめてみた。

1-モノを買っているわけではないのに…

買わなくてもモノは部屋に忍び込んでくる

失われた数十年が続いているとはいえ、まだまだ豊かなわが国では、お金を出さなくても物は毎日のように部屋の中に踏み込んでくる。
紙袋やレジ袋を筆頭に、何かのパッケージや箱、景品やお土産でもらったもの…

買ったもの、買わなかったもの、価値のあるもの、ないもの、そんな区分はまったく関係なく、購入したわけでも選んだわけでもない「モノ」が、何度も何度も我が家の玄関から入ってきては、貴重なスペースを占める。

そして、次第に数が増えていき、それらのために新たに場所を作る。
新たなスペース、新たな収納ボックス、新たな収納家具。
気付けば押入の一角やクローゼットの一部が、それらで侵食されている…。

当時も今も、主婦向けの情報記事では「収納メソッド」が大人気だ。
ありとあらゆる収納方法を駆使すれば、部屋のいたるところが収納スペースとなる

すると…モノは際限なく増えていく。

モノが捨てられないのはモノを大切にするから

私は、モノを捨てるのがとても苦手な「とっとき魔」だった。
とにかく何でもかんでも「とっておく」よう、心と体がプログラミング化されていたのだ。

しかし、モノを捨てられないというのは、よく言えばモノを大切にするということだ。
まだきれいなもの、一時は大事にしていたもの、捨ててしまうには忍びないものを、一瞬のうちに「ゴミ」に変えてしまうのは、モノがかわいそう…という気持ちがある。
いつか使うかも、なんだかキレイだから、という理由だけでデパートの紙バッグなどをとっておく。

それ自体は悪くはないが、一度きりの人生で、自分にとって価値があるのかどうかわからないものの収納で悩んでいるのは、もっとずっと、もったいないことでもある。

2ーモノはいつか何かに使うのに…

何かに使えそう

高級お菓子の箱、包み紙、きれいな歯切れ、きれいなビン…
それらは本当に見事なデザイン、そして素材でできていて、手に取った瞬間は幸福感でいっぱいになる。

だから取っておく。
何のために…かは自分でもわからないので、魔法の言葉をつぶやく。
「何かに使えそう」

実際に「何かに」使ったものも沢山ある。
お菓子の箱は収納ボックスに使う、包み紙は味気ない段ボールに貼ってみる、ガラスのビンはお花を活けるのに。
子供の頃から創意工夫するのは大好きだったことも災い(?)して、「不用品」を「何かステキなもの」に変えることは、実は得意なのだ。

とはいえ、それにも限度がある。
何年も、十何年も、二十何年も、何に使われることもなく部屋の中で眠っているものの量が、次第に増えていく。

そういえば、「嫁入り道具」の中に「デパートの紙袋」も入れてしまった。
つまりは、そういう性分なのだ。

使わないものは「使うため」にとっておく

とにかく捨てられない自分だったが、捨てるためのルールは作っていた。
例えば服なら、まずは「外出用」として購入し(できるだけ家でも着られる素材やデザインを選ぶ)、古くなったら「家着」にし、穴が開いたりシミだらけになったら「古着」にする、というルールだ。
古着になったら主に「掃除用」として使う。
実際に、あちこち拭いたりするのに便利だ。

とはいえ、やはりそれにも限度がある。
「古着置き場」としての一時置き場は、気づけば衣装ケース4つ分くらいになっていた。

別に「衣替え用の服」として季節の服を収納しているケースもあったが、それが3ケースほど。
もはや、所有している服の量を上回っている。

おまけに掃除に向かない素材の服もあり、いつしか古着置き場の確保にも困るようになっていた。

その他、引き出物などでもらった高級食器、嗜好が変わって興味がなくなった雑貨、高価だが年齢的に着用するのが難しくなったアクセサリー…
それには一応の「価値」があるため、捨てるには忍びないものたちだった。

それらも戸棚やクローゼットを整理するたびに、ご丁寧に並べ替えて収納する。
いつか使う日のために…

3ーモノは最初はゴミではなかったのに…

もったいないおばけに憑りつかれて

よくテレビ番組などで不用品を整理し、「ゴミ袋20袋の不用品が出ました」などといって拍手する、などというシーンが流れることがある。
それができれば何の問題もないが、出来ない人もいる。
「もったいないおばけ」に憑りつかれてしまった人々だ。

今まで(建前上)大切にしていたものをごみ処理施設で焼却する」というのは、もったいなくて申し訳なさすぎる。
ゴミ袋にポイっと入れて目の前から処分する…「もったいないおばけに憑りつかれた人」にとって、それがどれほど高い壁かということは、やましたひでこさんにも近藤麻理恵さんにも理解していただけないのではないだろうか。

その性格を変えるのと、不用品と共に暮らすのとどちらが楽か、というと、どうしても「後者」になってしまうのだ。

前世でもったいないおばけと自分との間にどんな因縁があったか知らないが、もったいないおばけとは、憑りつかれたら非常に厄介なのだ。

モノへの罪悪感

例えば、大きな家具だったり、自治体で引き取ってくれない種類の化学製品だったりは処分するのも大変だが、大きさや素材に問題がなければ、「ゴミの日に、ゴミ袋に入れて指定の場所に出す」だけでモノを処分することができる。

つまりはたったそれだけで、私たちはモノの命を終わらせることができる。
いわば、袋詰めにしてモノを「殺す」のだ…

そんな発想はバカげている。
そんなことは、もちろん頭ではわかっている。
けれど、ぬぐえないのは、モノに対する罪悪感。

ずっと長いこと、それで苦しんできた。

そんな自分が、試行錯誤の末に生み出した「断捨離法」については次回へ。