アラフィフあたりで断捨離を始めたらよいと思う3つの理由

断捨離の時間
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アラフォー、アラフィフで断捨離に取り組んでいる人は多いという。
人生40、50年も生きていればそれなりに物が溜まり「邪魔だな」と感じることもある。

邪魔なものも経験の一つ。
遠回りしてきて、無駄をたくさんしてきたこと、それはすべてちゃんと「経験」という宝物
どれも自分を形作ってきたもので、どれかがなければ今の自分はない。

そうやって十分経験を積み、ムダなことをたくさん蓄えてきた50代は、経験はモノや記憶ではなく、自分自身になっている
だから、モノや記憶(にまつわる品々)を整理しても大丈夫。
モノがなくなっても、いやなくなったからこそ、きっとこれからも真っすぐ自分の人生を生きていける。

体も心もちょっぴり使い古してしまった50代だからこそ、未来に向けて今日を生きるため、邪魔なもの、ムダなものを整理していく
つまりは「断捨離」だ。

モノから自分の人生を見つめ直す

モノは自分の人生をあぶりだす

断捨離をしていると、自分のこれまでの人生があぶりだされていく。
自分が何を大切にしながら生きていたのか。何にエネルギーを費やしてきたのか。

そして「愕然」としてしまう。
生きていくのに必要なものはもっと他にあったのに、すごく遠回りをしてきたような

服の数がものすごく多いとか、趣味のものであふれているとか、何だかよくわからないが押入がパンパン、なんてこともあるだろう。

実は私はそれほど物欲がなく、モノを大事にしていおり、買い物もそんなにしない。
だから、モノの数もそれほど多くないと、断捨離を始める前は本気で思っていた。

だが、違っていた。
私が「断捨離すべき」ものは、物欲で手に入れたものでも、大事なものでも、買い物しまくった結果でもなかった。
空き箱やきれいな包装紙、誰かからのギフト、好きではない食器…
捨てられずにたまっていたそれらが、部屋の貴重なスペースを何カ所も侵食していたのだ。
私が「とっておいた」様々なモノたちは、何の感慨もない無言な存在でしかなかった…。

ということに、気づいた。

断捨離は、年齢関係なくできるが、やはり年齢によって取り組み方は違うと思う。
若い頃の断捨離は、「部屋の片づけ」と同義かもしれないが、50を過ぎてからのそれは、まさに自分の人生を見直す行為。
部屋のあちこちに潜んでいる様々なものたちが、自分の人生をまざまざと見せつけるから、片づける前に目をそらしたくもなる。
が、ここで見てみぬふりをしたら先に進めないので、一歩を踏み出すしかない。

心が行き場をなくしたら断捨離をしてみる

50になったら断捨離を…と書いたが、自分自身が取組み始めたのは、40代前半頃だった。
そもそものきっかけは、当時、強いストレスのため身体中に蕁麻疹が現れ、絶えず不安に苛まれ、眩暈や動悸に苦しんでいたからだ。
思い当たる明確な原因はあったのだが、それも含めて「ホルモンの乱れ」「プレ更年期障害」だったのだろう。

何とか脱却する方法はないかと読んだ本の中に「モノを手放せば心が軽くなる」と書かれていた。
騙されたつもりで、少しずつ断捨離をすることを決意した。

それから数年…いや、もう10年くらいは「断捨離」と口にしている気がするが、未だ終了する気配を見せていない。
けれど、心はずいぶん軽くなり、断捨離技術も向上してきた
一番大事なことは自分自身の認識を変えていくことだったから、それは成功したといえるのかもしれない。

心が行き場をなくしたら、目の前にあるものを取り除くしかない。それが「行き場」の邪魔をしているのかもしれないのだ。
例え、人間関係や、仕事や家族や、そんな風になかなか難しいもので悩んでいたとしても、「とりあえず目の前にあるもの」から取り除いていくことで、少しずつ、ほんのちょっとずつ、状況は変わっていく。

モノは墓場まで持っていけない

今後の人生で不要なものがわかってくる

50代になると、人生の終わりがうっすらと見えてくる。
また、自分のライフスタイル、好みも概ね確定している。

今所持しているものの中には、「今後興味、関心を持つ可能性が低いもの」もある。
それらは、今後どうするか。
少なくとも墓場まで持っていけない
どんなに大切にしていても、思い入れがあっても、いずれはすべてゴミ。
どんなに価値があるものであっても、将来的にそれはゴミになるか、もしくは自分ではない誰かのものになる。

また、これまでの50年間で極端に興味、関心がないものについて、今後興味を持つ可能性は、恐らく低いであろうということがはっきりしてくる。
(若い頃は寺社仏閣に興味がなく、年をとったら興味を持つ、などというケースはもちろんあるが、そもそもそういう人の所持品には寺社仏閣に関するものはほぼないであろうから、ここでは今後の趣向の変化については掘り下げない)

50代の自分自身が何かを所有できる期間は、長ければ50年以上あるが、もしかしたら思っているよりもずっと短い可能性もある。
その期間がどれくらいかはわからないが、自分にも確実にその日がくるのがわかってくるのが50代。
「今」「今後」不要だと思うものは、断捨離の対象にする。

「生きているうちに出来る」断捨離をやってみる

断捨離が完全に終わるのは、よく考えると死後である。
死んだ後に誰かが片付けてくれたとき、ようやく完了する。
生きている間は何かしら物が必要なので、実際には「今」「今後」不要だと言いながら、何でもかんでも捨ててしまうわけにはいかない。

だから、生きている間は「できる限りの断捨離」しかできないが、いつまで生きているかもわからない。

となると、死んだ後に片付ける誰かになるべく迷惑が掛からないようにする、といったことも断捨離の一つの基準になる。
迷惑だけならともかく、所有物の中にはどうしても「誰かに見られたら恥ずかしい」ものも、多分に含まれているのだし。

※本来の断捨離の意味は「自分の所有品を一切なくす」という極端な意味ではないが、突き詰めて考えると、最終的には肉体が魂を切り離すときにも「断捨離」があるような気がするので、あえて極端に考えてみた。

モノは心を軽くする

管理できるものを持つ

完全な断捨離は「死後」まで終わらないし、「できる限りの断捨離」も時間がかかる。
年をとるにつれて価値基準も変わり、何かを処分しても、また新たな何かを手に入れることもあるからだ。

だから、「当面の目標」として、「自分が管理できるもの」を所有することにしたい
管理するためには、大前提として「モノの数が少ないこと」

モノが多いと置く場所にも困るし、例え豪邸に住んでいてたっぷりの収納スペースがあったとしても、それを管理するのは大変だ。
「自分はこんなものを持っていたっけ?」
それすらわからなくなる。

部屋、つまりは暮らしをスッキリさせるためにも、所持品の数は少ないに越したことがない

モノを処分するときは、心にも体にも多少なりとのストレスがかかったりするが、自分なりに十分納得して処分すると、「自分の生活圏内からなくなってよかった」と感じる。
モノは自分が思っている以上に、自分をギチギチに縛り付けて身動きをとれなくする
モノが少ないと、その分身軽で柔軟になれるのだ。