四季を人生の標石として感じてみよう

整える時間
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四季を感じる暮らしとは、風流だとか意識が高いとか、そんな「感覚的」な話ではない。
四季とは区切り。せっかく日本に生まれたのなら、古代からDNAに組み込まれた「四季の感覚」を、人生の標石にしたい

四季とは

四季とは1年を4つに区切ることだが、そもそも「四季の区切り」はいつなのだろう
春はいつ? 夏はいつまで?
実際4つに区切ろうとすると、「春は名のみの風の寒さ」だったり、昨今の異常気象により秋や春に真夏日とか、そもそも北と南では気候が結構違っていたりと、四季の定義すら難しい。

四季というからには「4つ」に区切って季節を考えたいところだが、実は春夏秋冬の区切りには諸説(というより考え方)がある。
ここでは国立天文台のサイトから、四季の考え方を知っておこう。

気象学的には3月~5月6月~8月9月~11月12月~2月
天文学的には春分~夏至
3月下~7月下
夏至~秋分
7月下~9月下
秋分~冬至
9月下~12月下
冬至~春分
12月下~3月下
暦月では1月~3月4月~6月7月~9月10月~12月
節月では立春~立夏
2月上~5月上
立夏~立秋
5月上~8月上
立秋~立冬
8月上~11月上
立冬~立春
11月上~2月上
国立天文台のサイトの表を参考に、わかりやすく作り変えている

日本ではこんなに様々な四季の捉え方があるのだと、改めて実感するが、こうしてみると「気象学的」な四季が最も実生活に近いように見える。その理由は、自分がほぼその時期に「衣替え」をするからだ。
だが、必ずしもぴったりと気象学的な四季が生活に即しているかというとそうでもなく、例えば9月は私の中では「夏の終わり」だ。これは、住んでいる地域にもよるだろう。

四季感じる時間を作ろう

現代人は四季への感受性が鈍っている?

日本には四季があるーというと、他の国には四季は一切ないようにも聞こえ、私は昔はそう思っていたのだが、四季の移り変わりは多くの諸外国にも存在する。

だが、四季に対する感受性は、やはり日本独特のものがあると思う。
かつての日本人は、四季を意識し、四季を感じ、四季に合わせて暮らしてきた。けれど今は、四季への感受性が鈍っているといわれる
これはある意味仕方がない。スーパーに行けばどんな季節の食材でも手に入るし(おいしさや新鮮さは無視するとして)、室内の空調を適度に保つ技術もある。

学生時代なら学校行事で四季を感じる機会もあるが、社会人になると結局は毎日同じことの繰り返しで「春だからこんな風に過ごそう」といった四季に合わせた暮らしをする必要は、ない。
もちろん仕事の中には、四季を存分に反映しているものもある。けれど、実際にはそれを準備するために、例えば夏の仕事なら「冬に計画し、春に準備し、夏は本番」という感じで、「今日は暑いなあ、ではこんな風に今日を演出して過ごそう」など、突然思い立つことは難しいし、どのみち「仕事」であれば四季を感じるというより、四季を「ビジネスにする」意味合いが強くなってしまう。

四季は(一応)意識しているが…

今現在、まったく四季を意識せず暮らしているかというと、そんなわけにはいかない。

まずは食べ物
スーパーに並ぶ食材は、農業技術が発展したとはいえ、やはり季節を反映したもの。いつでも四季を問わず様々な食材が売られているとはいえ、適切な時期に収穫した食材は美味しくて安い
寒くなったら「白菜がおいしい季節になったな」と感じたり、あったかい鍋物やおでんが恋しくなる。夏はソーメンやゴーヤ。トムヤムクンなどのエスニック料理も真夏の方がおいしく感じるが、これは「タイは暑い国だから」という先入観からきているだけかもしれないが。

衣類もそう。
防寒防暑といった目的だけでなく、「夏らしく」「秋らしく」見える服を選ぶ。そっちの方がおしゃれに見えるし、自分の気分も上がる。例えば、夏のリゾート地ではハイビスカスのワンピースを着たり、冬にはファー素材のものを取り入れたり、という感じに。

そして住まい
もしかしたら最も季節を意識しているのは住居かもしれない。寒い日にクーラーやタオルケット、暑い日にこたつや毛布、という暮らしをすることは、まずありえない。

四季とは人生で立ち止まるための標石のようなもの

ある程度の季節に合わせた暮らしは、身を守るため、生活していくうえで必要だが、現代人は改めて意識しなくても特に問題なく生きていけるものでもある。

だが、四季をしっかりと感じて暮らすことは、忙しい現代人だからこそ必要なのかもしれない。
春だね、暖かくなったね。梅雨だね、じめじめするね。木枯らしが吹くね、寒いね。
これも季節の「感じ方」ではあるし、そのようなことは意識せずともやってきた。さらにもっと季節を感じよう…ということをしたいわけではないのだ。

四季というのは区切り、それは気温や天候の変化だけではなく、長い人生でちょっと立ち止まるための標石(マイルストーン)のようなものだと思うのだ。
四季がはっきりしない国に生まれ育っていたら、また別の感覚を備えていたかもしれないが、少なくとも日本人のDNAの中には「四季という区切り」が埋め込まれている、気がする。

春にお花見、夏には花火、秋には紅葉狩り、冬には炬燵でみかん、といった「季節のイベント」を改めて行わなくても、四季が変わると自分の心のスイッチも切り替わるような感覚がある。

だから、自分なりの春の過ごし方、夏の過ごし方をしていきたい。ダラダラと季節をやり過ごすのではなく、自分だけの季節のイベントをもうけておく。わざわざ何かするのではなく、「春の自分はいつもこうだ」ということを、自分が認識しておくことで、かけがえのない春や夏や秋や冬を過ごしていきたい。

それは、四季に対する感受性という話ではなく、自分の「年間マニュアル」のようなものだ。毎年巡りくるはずなのに、その時期になると毎回焦り、慌てることも多いため、整理しておくと季節への心構えも落ち着いてできる。
いわゆる「四季」だけを軸にするのではなく、「仕事の繁忙期」「プライベートな行事」といった自分だけのイベントも入れて、あくまで「区切り」として自分なりの「四季の過ごし方」を考えてみたい

四季を表現する

四季を感じるために、余裕があったら四季を自分なりに表現してみよう。
四季の草花の写真を撮ってもいいし、俳句や短歌を作ったり、花屋で季節の花を買って活けてみてもいい。時間を作って散歩するだけでもよい。
季節にほんのちょっと足を止めて、それを深く感じる時間を作る
ここまで出来る心の余裕を持てたら、四季をもっと感じて、人生をもっと味わえるだろう。