「すべきことのゴール」を決めるための3つの方法

やりたいことをやる
このエントリーをはてなブックマークに追加

「すべきこと」「したいこと」は、ある到達点があり、とりあえずそれをクリアすれば終了!といった明確で具体的な完了地点がある。

けれど、なかなかはっきり到達点が決まらないものもある。
結局何をしたいのか、いつ何をしたいのか。

ゴールをきちんと決めることで、やりたいことを実現できる可能性が大きくなる。
すべきことのゴールを決めるための3つの方法についてまとめてみた。

1-目的を決める

曖昧な目的は曖昧な未来にしかつながらない

昔の話だが、地下鉄で英会話の本を広げていたら、目の前に外国人が微笑みかけてきた。
そして尋ねられた。「なぜ、英語を勉強しているの?」
困った。目的などなかった。
「英検1級」のような明確な目的があればまだしも、話せたらいいな、文化を理解できたらいいな、そんな漠然とした目的しかもっていなかった。

英語の勉強は長く続けているが、予定とか目的があるのではなく、非常にあいまいでぼんやりした希望とか願望だけしかもっていない。
痩せたい、お金持ちになりたい、外国に行きたい…など何となく「だったらいいな」と弱く淡く未来を描くと、曖昧な希望は曖昧な未来にしかつながらない。

夢の理由と到達点を明確にする

せっかく描く未来、色を重ねていくように、もう少しくっきりと描き、自分だけの絵を完成させてみたい。
もしも、目標を達成したいと思っているのなら、その理由と到達点を明確にする

例えば、英語を話せるようになる、という夢、目標、希望、願望があれば…

そもそもなぜ英語を話したい?(話せるようになったら何をしたい?)
何のためにこの目標を立ている? 
それを、できるだけ具体的に。

旅行に行ったときに使うため…だと、もしかしたら弱いかもしれない。「旅行」そのものの範囲が広すぎる。
「アメリカに旅行に行ったら、ちょっとした高級レストランでステーキを食べたい。その時にオーダーするときの英語」くらいであれば、かなり具体的になる。

ある程度の英語の基礎は身についているのであれば、もっとしっかり目的を持てば必ずもっとレベルは上がるはずなのだ。
なのに、「ビジネスでも必要かも」「字幕なしで映画も観たい」「外国人に道で話しかけられたら」…と、あまりにも目的がとっ散らかっている

目標がとっ散らかっていると、なかなか上達しないし、もしもある程度上達したとしても「これって到達点?」とわからなくなる。
せっかく夢をかなえても「欲しいものってこれだったっけ?」という感想しか持てないのは、何だかとてももったいない。

だから、目的を明確にする。具体的にする。

2-「いつか」というゴールを決める

「いつか」っていつ?

いつの日か北欧に行きたい…ずっと心の中で抱いている夢の一つだ。
だが、いつの日とは何年何月? 北欧とひとからげにするが実は4か国あり、観光スポットも数十カ所もある。一体どの街へ? 何をしに?
「とりあえず北欧行きたい」と思っているだけで、その先は考えていないのである。

「いつ」を強引に今決める

「いつ」と言っても、「仕事が暇になって、お金の都合がついた時」としか今の自分には言えないが、それならある程度は絞られてくる。

例えば60歳。65歳まで働くかもしれない、としても、60歳を目標にしておけば、実際に60歳になったときに見直すこともできる。
お金の都合…北欧旅行の資金として100万円ほど貯めておこうか。

北欧旅行の詳細については、今すぐにでもネットで情報を仕入れられるが、それは旅行に行ける日が近づいてからでもよい。
とすれば…「60歳の誕生日を迎えるまでに100万円貯金する」というゴールと「60歳で北欧旅行の計画を立てる」というゴールができる。
「60代に達成したいこと」としてリストにまとめてしまってもよいかもしれないし、エクセルなどに「ライフタイムスケジュール」を作っても良いかもしれない。

「いつか」という日は永遠にやってこない。
「いつ」という日はやがてやってくるが、その日が来ても思ったようには行かないかもしれない。
ただ、「いつ」を強引にでも、今この段階で勝手に決めてしまうことで、ほんの少しだけでも夢の実現へ向けて梶が切られる。
そして、「どんなステップで夢をかなえるか」を、具体的に考えてみる。

旅は行くまでが楽しいと言われるが、まさに今、「未来の旅支度」に向けて準備をする。
「いつか」ではなく「いつ」に向けて。

みほん

今の生活が、死の間際に振り返る人生

かの有名なスティーブン・R・コヴィー氏の「7つの習慣」では、「英語を話す」「旅行する」といったイベント的なことではなく、「人生のゴールを決めよう」と説いている。
自分自身の葬儀で「この人はこんな人でこんな人生を歩みました」と、誰かが自分のために読んでくれる弔辞を思い浮かべてみようということだ。

もしも自分の葬儀で誰かが弔辞を読んでくれるとしたら…
「決して目立つ人ではなかったが(これは事実)、あの時自分にかけてくれた言葉で本当に救われました」
などといってもらえたら、嬉しいかも、しれない。

実は、これに似たことがかつてあった。

大学時代、とあるスポーツ系のサークルに所属しており、私以外の人は「シャキシャキしていて、(今の言葉で言う)パリピで陽キャ」に見えたが、私だけが「何だかおっとりのんびりしていそう」に見え、「この人ができるなら自分もできるかもしれない」と入部を決めた、と後輩に言われたことがある。
確かにサークルには元気で快活な人が多く、そんなメンバーにいつも押されがちだった。
何もできない、ボーっとしているだけの自分だったが、ただサークル勧誘の長机の隅っこに座っているだけで、誰かに影響を与えることもあるのか、と知った出来事だった。

そして、あの時の後輩の言葉は、何年たっても自分の人生のどこかにふいっと現れ、自分を励ましてくれる。
誰かにどこかで感謝されていたり、知らないところで励ましていたら…多分、とてもうれしい。

少なくとも「あの人はおいしいお店をたくさん知っていました」「ブランドバッグをたくさん持っていました」という弔辞を受けたいとは、自分は思わない。
「ワンちゃんと楽しそうに暮らしていました」であれば、かなり嬉しいと思うが。

それが、自分が目指している生き方。
人生のゴールが「弔辞で読まれる言葉」であるなら、今この時点から、そういう生き方をしたい。

目的とゴールがあれば達成感も得られる

「何かをやっている」ことに必死になり、そのことで何を得たいのかが分かっていない…そんな時間をずっと過ごしていた。
別にそれでも自分が満足感を得ていたらよいが、いつも何か満たされない感じだった。

目的ゴールを決め、そしてそれを達成出来たら…その時初めて満たされるかもしれない

実は、今のゴールは「愛犬の命が尽きる日まで楽しく過ごす」ことで、それを常に人生の真ん中に置いているので、かつてないほどの満足感がある。
その後のことは…一応は考えているが、ペットロスだけが問題だ…