人生経験が50年以上あると、ちょっとしたベテランの域に入ってくる。
ここにたどり着くまで、それこそ紆余曲折を経てきたわけで、逃げ出したくなることも数限りなくあった。
だが、何とか生き抜き、それなりの頑張りを続けていたら、それなりの幸せな時間は持てるようになった。
実は、若い頃に抱いていた50代のイメージと、実際の50代の自分とでは、結構認識が違っている。
今回は、50代について抱いていたイメージと実際についてまとめてみた。
50代は…若くない?
20歳の若者から見た50代は「老けたおばさん」…
若い頃、50代というのは「おばあさん」、または「老けたおばさん」だと思っていた。
20歳そこそこの若者には、30年後の自分など想像できず、周囲の50代女性に対しても「大人」というよりも「年配の女性」であるという目で見ていた。
例えば自分が20歳のとき、50代の女性というと…中村珠緒さんとかだろうか。
この方については、実は「女優」というより「バラエティー番組に出ている面白いおばちゃん」という印象を持っており、「大人の女性」という認識はなかったのだが。
思い返してみると当時の自分は、40代以上の女性はすでに「年配」と思っていた気がする。
50代の方に対しては、なおさら。
今、一番会いたくない人物は、20歳頃の、世間知らずで失礼だった自分だ…
50代から見た50代は「思っていたより若い」
だが、実際に自分が50代を迎えたときに思ったのは、「あれ? 思っていたより若い」ということだった。
「自分が年をとった」ということを認めたくない、ということもあるが、まったく同じことを、同世代の勝間和代さんも言っていた。
(勝間和代さんは、さほど年齢が変わらないのに、私の倍くらい濃い人生を歩んでこられて、違う世界の、違う次元の、違う人種の人に見えてしまう)
若いと思った理由は…
まず見た目が若い。
石田ゆり子さんや森高千里さんのような容姿でなくとも、それなりに身なりを整えていたら「年配の女性」ではなく「大人の女性」に見える。
私自身も「おばさん」であっても、さすがに「おばあさん」には見えないのでは…と感じている(少なくとも遠目には)。
動きもこれまでと大きく変わらない。
信号が変わる前にダッシュできなくなったり(息切れするが)、階段がきつくなったり(やはり息切れすることはあるが)、徹夜できなくなったり(そもそも徹夜はほとんどしないが)、といったことも今のところはない。
若い頃からあまりアクティブではなく、低燃費生活を送ってきた人間にとっては、年齢による変化はあまり見られないものだ。
若い頃はバリバリやって、年をとったらガタが来た、という生き方もロックでかっこいいと思うが。
けれど、勝間和代さんの生き方は今も昔もロックで、それなのに「意外と若い」とおっしゃる。
要するに「今時の50代は結構若い」ということなのだろう。
ただし、50代は前半と後半で色々と変化もあるとのことなので、いつまでも若いつもりではいられないだろうとは覚悟している。
50代は…楽しくない?
50代の楽しみは「おばさんの楽しみ」?
50代になれば、20代の時のような楽しいことはなく、あったとしてもそれはおばさんの楽しみなのだと思っていた。
盆栽とかゲートボールとか、若い頃の自分が描いていた、年寄りの楽しみしかない。
確かにそれはその通り。
(盆栽やゲートボールは、さすがにもうちょっと年齢が上がってからのイメージだが)
年をとると20代のような楽しみがない。
50代の楽しみは変わった! 増えた!
というより、20代の頃とは楽しむ対象が違っているといった方がよいかもしれない。
子供の頃、キャラクターのついた封筒や便箋を集めるのが好きだった。マイメロディの腕時計が宝物だった。どこに行くにも「スピカ」と名付けたハムスターのぬいぐるみを持って行っていた。
けれど、もしも今、誰かがマイメロディのグッズをプレゼントしてくれても、あの頃のようには喜べない。
楽しみの対象が変わってしまったから。
20代の頃に「楽しくなさそう」に見えたことが、50代になって「楽しい」ことになるのは、単に楽しみの対象が変わっただけだ。
もちろん、子供の頃から楽しいと思っていたこと…ワンコと遊ぶこと、「うっせえな」の替え歌を必死で考えること、誰かをびっくりさせるためにいろいろ企画すること、ガラスを落ちる水滴が下の方の水滴にくっついて一気に滑り落ちる瞬間をじっと見守ること…そんなふうに、つい時間を忘れて没頭してしまうこと、子供の頃から変わっていない。
楽しみは増え、楽しみは変わり、そしてこれからも増えていくかもしれないという期待…
むしろ、何だかよくわからないまま、周囲に流されて楽しみを押し付けられていた若い頃より、今の方が楽しいこともある。
若い頃の、無鉄砲で自己主張のない楽しみも、あの時ならではの貴重な宝物だが。
50代は…残り物?
枯れ葉、帰り道、溶けたジュース…それが50代?
50代は、木に例えると「枯れ葉」、山に例えると「頂上からの帰り道」、カフェで飲むオレンジジュースに例えると「ジュースはまだ残っているが、それはかなり薄くなって、溶けた氷とほぼ同化している」状態…だと思っていた。
何というか…人生の残り?
季節も道も玉露も…50代だから楽しめる
だが、50代になって、思っていたよりもずっと若いと思い、楽しいと感じた。
若い頃から、そんなに変わっていない自分がいた。
ただし、若い頃とまったく同じというわけにはいかない。
さすがに「20代の私と今の私、なーんにも変わってない!」ことばかりだとしたら、50年もかけて自分はいったい何をやってきたのかと、悲しくなってしまう。
自分はちゃんと年齢を重ねて、経験を積んできた。
感受性だったり好みだったりは、若い頃とは変わっていない部分や、大切にし続けていることもあるが、年齢に合わせて変わるべきところはちゃんと変わってきたつもりだ。
だから、「若い」というのは、自分の心や体の感覚であって、50年という歳月は、ちゃんと心にも体にも刻み込まれている。
50代はちゃんと50代、けれどそれは人生の残り物ではなく、まったく別のものだ。
木に例えると、そもそも落葉樹ではなく、山に例えると、そもそも別ルートがあったり、オレンジジュースに例えると、そもそも常温がおいしい玉露だったり、という感じ。
残り物でも、惰性で進んでいく人生の続きでもなく、常に新しい自分が、ここにいる。
過去を持ち、今があって、未来も薄っすら見える50代。
50代という世界は、意外なほどに奥深い。