介護の経験を語ってみる【認知症の母を看た体験談】

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「親の介護」がしたい人などいないだろう。
元気な時を知っているだけに、出来ないことが増えていく姿を看るのは辛いし、介護にはお金も時間もかかる。
けれども、したくないと言ってもそうはいかない場合もある。

介護に対しては、人それぞれ様々な意見があると思うが、一意見として私自身の介護の経験から学んだことを書いてみたい。

介護をするということ

40代後半から50代まで、私は「認知症の母親の介護」を経験した。
「介護」と一言に言っても、要介護者の状態や、実際の自分の行動などは本当に人それぞれなので、一概に「介護とはこういうことで、こうすればよい」と語ることはできない。
また、例え全く同じ状況であったとしても、価値観もそれぞれだ。

だが、私のように突然、介護に直面することになった人が、何らかの参考にでもなればよいと思い、「私が考える介護の形」を書いてみようと思う。

介護は突然に…何から始めればいいのか

介護というものは、ラブストーリーよりも突然にやってくる。
何から始めればいいのか わからないまま時は流れ…という感じに。

あの日あの時…を迎える直前まで、私はぼんやりと「年老いた親の介護」のイメージを持っていた。
「万が一、この先介護をすることになったとしても、それは親が90歳近く(自分が60~70代)だろうし、体が少し弱るのは仕方ないとして認知症になどなるわけないし、そもそも介護をする可能性は低いだろう」と。

まったくお花畑な発想であるが、これには理由がある。

これが、自分が介護をするイメージはまるでなかった「理由」だが、振り返るとまったく根拠のない理由でしかない。
とにかく40代後半の自分は、介護の「か」の字も考えたことがなかった。

母の症状の経緯

ここで母の症状と介護の経緯を簡単に振り返ってみよう。

母が70代に入った頃、言動におかしなところが増える。
だが、もともと(私と同じで)天然発言や思い込みが激しかったため、「年をとると、こんなにも思考が衰えるのか」と、老化の傾向の一つとしかとらえていなかった。

73歳の頃、母の知人が強制的に精神科を予約し、そこで「軽度認知症」が発覚
この知人は、身内に認知症患者がいたため、母の様子を見てピンと来たらしい。この方が動いてくれなければ、さらに発覚が遅れただろう。
早速治療(投薬)をはじめたが、当初は認知症的な言動なあまり見られず、「そのうちよくなるのでは」とすら考えていた。認知症が進行性の病気であることは知っていたが、「母に限って」重度化するとは考えられなかった。
本当に身近な人のことは客観的には見られないものだなあと実感する…。

しかし、1年後(74歳)には私に向かって「あなたは私のお姉さん?」と聞き、色々と説明すると「誰が勝手に自分に子供を産ませたのか!」と怒りだすようなことが見られはじめ、母の頭の中がぐちゃぐちゃに混乱し始めた(正常な時もあったが)。
そして、ケアマネジャーをつけ、病院を変わり、デイサービスを利用するようになった。

次第に自分でトイレの始末ができない、服の着方がおかしくなる(服の上に下着を着たり)、家族の外出中に食事を用意しておいても食べることができない(食べようという発想がない)、など、誰かが世話をしなければいけないことが増えてきた(75-76歳)。

そして、体にも衰えが見られた。
最終的にパーキンソン病も発症し、歩けず、立てず、体が拘縮する、という状態になった。(パーキンソンに関しては、適切な治療をすれば進行をずっと遅らせることができたらしいので、これは病院と自分たちのミスである)
食事も自分ではとれなくなり全介助、そのうちの見込みもの見込みが悪くなった。(77歳

家族の判断で胃ろうを作り在宅介護78歳)。ほぼ寝たきりで要介護5の状態だったが、それも1か月ほどしか続かず、「誤嚥性肺炎」で病院へ戻る。
そして、79歳と2か月で母は永眠した。

介護のルール 私の家族編

母の「認知症」の診断が下った当初は、介護らしい介護はしていない。せいぜい「母を病院に連れて行く」「薬を確実に飲ませる」くらいのもの。
だが、次第にできることが少なくなり、私が母に費やす時間が増えていった。
そして本当の「介護」がスタートし、これからいつまで続くかわからない介護が始まるなあ…そう思った時、私は「介護のポリシー」を考えた

誰かに任せる

介護のすべてを自分一人で行うと、多分ものすごく大変だ。
だから、とりあえず可能な限り誰かに任せることにした

主たる介護者は二人。
実家に母と同居していた独身の実妹と、結婚して実家の近所に住んでいた私(もう一人妹がいるが、遠方に暮らしていたためほぼ介護は行っていない。ちなみに、色々考えた末、後に母と同居する)

二人体制だということは大きな強みである。互いに時間をやりくりしながら、仕事やプライベートともバランスをとれる。

そのほかに福祉のサービスを大いに利用した

特にデイサービスにはお世話になった。
母に合うデイサービスを見つけるのは、知識ゼロの自分にはちょっと大変だった。
ケアマネさんから渡された「自宅から通えるデイサービスリスト」には、100くらいの施設が羅列されていた。色々と特徴も書かれているが、初心者の自分にはよくわからない。
そこで、「家から近い順」というルールを作って、そこから探していった。他に基準を思いつかなかったのだ。
100も施設があっても、家から10kmのデイサービスだと、何かあったときに不便かも、と考えたのだ。(具体的な「何か」を想定していたわけではないが、結果的には近い場所で助かったことが多い)

デイサービスは複数見学したが、前述したとおり、母は非常に社交的でおしゃれな人だった。「施設っぽい」「病院っぽい」「スタッフさんが白衣や作業着を着ている」ところは苦手だろうと思い、「一見、普通のおうちみたい」「スタッフさんが私服」、さらには「スタッフ犬がいる」というおまけまでついたところを見つけた(母は子供の頃から大の犬好きである)。
結果的に、母にとって120点くらいのデイサービスだった。
120点のデイサービスさんは、本当に親身になってお世話してくださり、自分たちが気づかないことも色々と教えてもらえたりし、最後の最後までお世話になった。

それ以外には、訪問看護、訪問歯科、訪問診療、訪問入浴、訪問リハビリ、ヘルパーとほぼフルコースの介護サービスをお願いした
おかげで、認知症でほぼ寝たきりの母を抱えながらも、時にはワンコとカフェや遠出したりと、私はそれなりにプライベートタイムを楽しく過ごすこともできた。

まずは自分を中心に考える

介護のために、自分のプライベートや楽しみを捨て、さらには仕事まで辞めて要介護者に尽くすという人もいる。
けれど、私はそれはムリだと思った。
私はもともと「世話好き」「尽くすタイプ」である。けれど、結局は疲れ果てて自分を見失い、何もかも捨てたくなるのがオチ。ニュースでよく見る「介護の末の殺人」なども、そういうケースが多いかもしれない。

私が壊れたら、結局何もかもおしまいになる。だから、最初から「壊れないように」する。
それを「介護のポリシー」にした。
そのためには、楽しいことを最優先させた。
実際にはムリであっても、自分の楽しみを一番に「考える」

介護の際は、大変だったり、思うようにいかなかったりイライラしたりすることもあったが、そんな時こそたくさんの「楽しみ(息抜き)を作る。
何と言っても、今はネットであらゆることが可能になる。
ファッション、美容、ドラマといった「女性が好きそうなこと」に、私はこれまであまり関心がなかったのだが、時は令和! 「ネットショッピング」「配信番組」がおうちで楽しめる。指先ひとつで「お店」や「映画館」に行ける。こういったことで息抜きしながら、無理やりにでも「小さな楽しみ」をたくさん作った。
ちなみに、当時の(今もだが)最大の楽しみは、ワンコとの暮らし。ワンコがいれば大変なことや嫌なことはほぼ吹っ飛んでいく。
(旅行などまとまった時間が必要なものは難しいので、自宅で思い立ったらすぐできることがよい)

お金と人手はあるに越したことはない

当たり前のことだが、関わる人が多ければ多いほど、自分の負担が減る。またお金がある方が選択肢が増える。

我が家の場合は、ある程度、母にお金があった。
後述するが、受けた福祉サービスには補助が出るため、上記のサービスの他、胃ろうの栄養剤、薬、ベッド等のレンタル代等を含めて8万円前後だったと思う(光熱費、家賃等は含まない生活費)。
この8万円を払えるか払えないかで、介護の負担はずいぶん変わる
それを母のお金で支払えたのは助かった。
とはいえ、最終的に母から相続した金額が一人当たり150万ほどだったことから考えても、母に大きな資産があったわけではないのだが。

介護には人手がある方がいい、無償で手を貸してくれる人が沢山いれば問題ないが、そうでなければお金がある方がいい。
お金か人。できればどちらも、無理ならどちらかでも。それも無理ならどうするか。

「8万円」と書いたが、3万円なら3万円内でのサービスを受けることになる。
ただ、お金があればあるほど選択肢は増えるし、家族の負担も減る。
当たり前のことだが、自分の未来のためにも、このことは忘れないでいたい。

最終的にどこまで介護するかを考える

介護は「先が見えない」とよく言われる。
「先」とは何か、どの時点を指すのか。
最期の「看取り」まで自宅で自分が責任を持ちたい…という人もいれば、要介護3になったら施設に入れると決めている人もいるかもしれない(要介護3から特養の入居可)。
私の場合は「自分ができるところまでやって、これ以上無理だと思ったら施設などに見てもらう」と決めた。

この生活を、長く続けられるのだろうか。いつまでできるのだろうか。
ふとそう考えたが、あらかじめ私は決めていたのだ。
「できるところまで」と。

だから「先が見えなくて大変だ」とは考えなかった。
先は見えないが、自分で決めた先はあるのだから。

介護は自分主体で

介護をすると、「要介護者のために」と、要介護者側に立ってしまうこともあるという。
けれど、私は「自分が介護する側として」という自分主体で考えることにした。

母は自分の意思を伝えることはできなくなっていたが、元気なときは「あんたたちには迷惑をかけたくない」「認知症などになって、情けない姿をさらして生きたくない」とよく言っていた。

というのは、母の父(祖父)は事故で、母(祖母)は「頭が痛い」と訴え、検査した結果病気が見つかり入院したが1か月ほどで急逝、という最期を遂げている。
どちらも「あっという間に」なくなってしまったという感じで、家族としては辛かったが、家族に介護させることもなく、パッと散るように人生を終えた姿を、かっこいいとすら家族は思うようになっていた
だから美意識が大変強い母は「自分もあんなふうにパッと散りたい」と考えていたのだ

それなのに、まったく望んでいない姿で晩年を過ごすことになり、「こんな風に生きたくなかっただろうな」といつも考えていた。
だから、母の治療のために血眼になって名医を探したり、少しでも生きられるように体中に管をつけたりということはしなかった。(胃ろうに関しては、家族との協議の末、踏み切ることにしたが)

「こうした方が母のためになる」と思ったことは、必ずしもそうではないかもしれない。
けれど、「自分で決めたこと」であれば、少なくとも自分は納得できる。

だから、常に自分主体で介護をした。

もっとしっかり介護する人もいるだろうし、もっとできたことも沢山あったはずだ。
こういった介護の考え方が正解だと、誰かに押し付けるつもりはない。
だが、私は周囲の友人が介護する際には必ずこう言っている。
「まず、自分のことを大事にしてね」と。