「どうでもいいこと」をする時間を自覚する

zakka やってみる
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24時間の使い方を3つに分けると、「やりたいこと」「やりたくないこと」、そして「どうでもいいこと」になる。
多分「やりたくないこと」以上に考えるべきは「どうでもいいこと」だ

「どうでもいいこと」とは、やりたくないわけではないから、そこから逃れようともしないし、かといってやりたいわけでもないから満足感も覚えない。
例えば、スマホやテレビをダラダラ見る、といった時間の使い方。
何とも宙ぶらりんな感じの時間の使い方だ。

が、別に、1日の大半が「どうでもいいこと」で占めていたとしても、別にそれが悪いわけでもない。
朝起きて、ダラダラ支度して仕事に行き、帰宅してテレビやスマホをダラダラやって寝る、という時間の使い方、それは何の問題もない。

けれど、もしも「どうでもいいこと」のせいで「やりたいこと」ができないと思ったら、その時にはちょっと時間の使い方を見直してみるとよいかもしれない

どうでもいいことの基準は人それぞれ

「どうでもよい」の基準は、それこそ人それぞれ。
「テレビを見る」が「どうでもいい」ことになる人もいれば、むしろ「やりたいこと」だと考える人もいるだろう。

「テレビを見る時間がもったいないから、もっと有意義なことをしろ」と他人が口を挟むことはできない。
「テレビを見ることこそが有意義な時間」と本人が認識していれば問題ない。
本人が「テレビを見る時間がもったいないから、もっと有意義なことをしたい」と思うかどうか、そこにしか判断基準はない。

テレビを見ることに対して、例えば「リラックスに必要」とか、「友人との話題についていくため」という理由があって、それに自分が納得していたら、それでもいいかもしれない。
テレビを見ること自体は「どうでもいいこと」とは言えない。

有吉弘行氏は、仕事がない時代に1日中テレビを見て、笑いを研究したという。
その結果…が、今の彼だ。
彼にとってテレビを見ることは「成功への大切なステップの一つだったのだ。

どうでもいいことは適当でよい

ばかばかしいのは、自分にとって本当にどうでもいいことに時間を費やし、一生懸命取り組んで、そこで疲れ果てて、本当にやりたいことができなくなることだ。
「どうでもいいこと」だと自分が認識したら、ほどほどの時間でほどほどの気力を費やす方がよい。

といっても言うは易く行うは難しで、例えば「ネットサーフィン」などはどうでもよいことの筆頭なのだが、ついやってしまい、ついやめらず、つい自己嫌悪に陥る。
どうでもいいことだと自覚していることは、ある程度強制的に意識的に遠ざけていかないといけない。
その方法はいくつかある。

時間を決める
どうでもいいことをする前にタイマーをセットし、「〇時までダラダラする」と決めて、思い切りどうでもいい時間を過ごす。

タイマーをセットするまでが面倒だけどね。
時間が来ても、そこでちゃんと終了するのも、鉄の意思が必要だけどね。
でも、とりあえずやってみるのだー

別の何かをやる
どうでもいいことに手が伸びそうになったら、別の何かをあらかじめ考えておいてそちらをやってみる。
例えば、SNSをダラダラやりそう…と思った時には「キッチンの掃除をする」と決めるなど。

「別の何か」はあらかじめいくつかピックアップして、手帳にでも書いておくことがオススメ!
「勉強する」みたいなハードルが高いことより、とりあえず手や体が動き、かつ「やらなければいけないこと」がいいよ

自分にとっての大切な時間を自覚する

「どうでもよいことに費やす時間」を考えたほうがよい理由は、自分が本当にやりたいことをするための時間を作るためだ。

泣いても笑っても、地球上に生きとし生けるものにとって、一日として与えられた時間は24時間。
(火星もほぼ24時間らしいが)
貴重な貴重な1分1秒、「今費やしている時間は、自分にとってどうでもいいか、それとも大切なものか」を自覚する。

理想は、「効率的に仕事を行う」→「業務に費やす時間が減る」→「よりクリエイティブで有効な仕事に時間を費やすことができる」という流れ。
または「効率的に仕事を行う」→「残業を減らして早く帰宅」→「趣味や育児に費やす」と、仕事よりもプライベートを優先してもよい。

時は金なり。
金なら誰かにもらうこともできるが、時は誰にももらえない。
生きている間中、自分の大切な時間を何かに費やしていることを忘れないようにしよう。

無駄なことに一生懸命になっていた後悔

これまで生きてきて、「暇だ」「退屈だ」と感じたことはほとんどない。目の前に途方もない空白を感じたことは一度もない。常に何かやり残したことややらなくてはならないことに追われて疲れている気がする。
と言うとかっこよく聞こえるかもしれない。
だが、それほどまでに多忙で充実した人生を過ごした来たのか、というとそうではない。むしろ結果的には何もしていない。どこにも行かず、何も残さず、何も得ていない。
何も、というのはいささか語弊があるものの、「忙しいという意識」と比較すると、ほぼ比例していない。

つまりは、まとめてみるとこういうことになる。
私はそれを成し遂げたところで特に得るものはないものに対し、意味のない義務感から追われて疲れていた、と。
自分でもそれは薄々わかっていて、けれどもなんなりと理由をつけながら意味のないことに必死になっていた

そういえば、学生時代からそうだった。
まだ世の中についてよくわかっていない頃、小説家になりたいという淡い夢を持っていた。
いくつも小説のネタを考えていたが、執筆が追い付いていなかった。常に「あれも描かなきゃ、これも書かなきゃ」と強迫観念に取りつかれていた。
結局、最後まで書くことができた作品は、ほとんどなかった。
でもいつかは書きたい、書かなくてはならないと信じていた。
自分の作ったルールに苦しめられて疲弊していたのだ。

せめて、疲れの理由が勉学や部活だったら、今頃はずいぶん違う人生を送っていたかもしれない。
せめて、あの頃の「しなければならない」という義務感を、小説に真摯に向かう姿勢に注いでいたら、満足できていたかもしれない…のに。

その後の人生もずっとそうだった。
目標をいくつも掲げては追い付けず、追いかけられていた。

達成できなかったことの数々。それでも普通に平凡に暮らしてこれたことの事実。
自分の生き方は大きく「間違えた」わけではない。
ただ、「満足」からは、遠い。
私はいったい何をやっていたのだろう。
四十代に入った時、人生を大切に生きたいと思っていたのに、満足感は半分くらい。

「すべきこと」より「したいこと」を大切にしたいと思える人生を求めたい。
実際にはなかなか難しくても、少なくとも「自分が本当にしたいことは何か」はしっかり把握しておこう。