夢を削りながら 年老いていくことに
気がついた時 はじめて気付く 空の青さに
歌手・谷村新司氏の「陽はまた昇る」の冒頭の歌詞だ。
高校生の頃、この曲を知った。
まだ十代、「老いる」の意味を真に理解するのにはずいぶん早い年齢で、この歌詞に恐れを抱いていた。
夢という、曖昧模糊としていても希望を抱かせるその響き、それはどこまでも果て無く広がっていくことができるはず…なのに、年老いていくと、それは削られていく。
年をとるとは、なんてつまらなく、なんて虚しく、なんて哀しいことなのだろう。
「哀しい」というときに使う漢字は、「悲しい」ではなく「哀しい」ほうが、何だかぴったりくるよねと思っていたあの頃の自分、気が遠くなるほど若かったのだ。
しかし、年老いていくと夢は削られるというのは本当なのか?
夢を削りながら年老いていく理由について考えてみた。
老いると失敗する余裕がないから?
若さは可能性を持っている
若い頃は可能性の塊だ。
もしも大きな失敗をして、そのこと自体は取り返しがつかないようなことで、どうにもこうにも諦めるしかないことだったとしても、別の道や別のやり方を選ぶことで、いくらでも素晴らしい人生を歩める可能性を秘めている。
例えばピアニストを目指して練習を重ねてきた少女が、手を失うような事故に遭ってしまったとする。そこからピアニストを目指すのは難しいかもしれないが、培ってきたスキルや努力の姿勢は、絶対にその後の人生で役立つ。
何らかの別の形で音楽に携わって大きな成功を収めたり、あるいは完全に音楽を捨て別の分野で輝いたり、ということが可能だ。
可能性とはそういうことだ。
年老いてからは可能性の意味が変わる
「年老いてから、何かの夢を持って挑戦し、残念ながら果たせなくても、別の道で輝ける、あるいは挑戦した経験が別の分野で活かせる」ということも、ないわけではない。
だが、何しろ残された時間が少ないため、成功までに費やす時間を確保しにくいし、失敗する余裕もあまりない。
ただし、やみくもに何でも挑戦していた若い頃とは違い、ある程度は自分の得意分野や性格なども把握できているから、そもそも「どう考えても失敗しそう」なことにチャレンジすることも少なくなっている。
何かを始めたときの成功の確率は、つまりは夢をかなえる確率は、もしかしたら老いたときの方が高いかもしれない。
老いたら夢を持つ必要性がないから?
子供は夢を強いられる
子供の頃に夢を持っていたのは、ずっと子供のままでいることはできず、やがては「大人になる」、そして「何者か」になることが目的だったから。
そして、その何者かとして収入を得て、自立して生きていく。
そのために、勉強し進学し就職する、あるいは趣味を極めていく。
どうしよう、何を目指そう、何になろう…と子供の頃は色々と悩み苦しんだりもする。
大人の夢は自由
大人になった現在、子供の頃に描いていた夢とはまるで違う生活をしていたとしても、「大人になる」という夢(というより、とりあえずは未来)の中にいて、それなりに生活を送っている。
子供の頃に必要とされていた「夢を持つ」という「義務」は、どうにかこうにか大人になってしまえば、特に必要はなくなっている。
確かに、50歳を過ぎて「今から何になろう、どんな仕事をしよう」と考える「必要性」はないから、夢を持つ必要もないのかもしれない。
それでも、生きている限り未来は続く。
むしろ、いわゆる「現役時代」という一時代が終わる頃には、新たな時代に向けて「何をしよう」と考えることは、実は結構必要なことでもある。
生活のため? 生きていくため? 老後のため?
そうかもしれないが、それを「夢」という言葉で置き換えても、いいかもしれない。
老いたら選択肢がなくなるから?
3種類しかメニューがないレストランは楽
例えば、メニューが100種類あるレストランと、3種類の店、どちらのほうが食べたいものを選べるか。
100種類のメニューとやらを見てみたいが、結局選ぶのは1つなので、実際には100種類の中から選ぶのは結構大変だ。優柔不断の自分は、いつまで経っても決まらないだろう。
100種類の夢が選べるのが若者、3種類しかないのが大人、そして老人。
若い頃は「無限の可能性」に振り回される。そして悩む。
悩みとは選択肢の数だったのかもしれない。
3つしかなければ悩みの数も少ない。
若い頃にただ一つを選び、それに全力を投入してきた人もいる。一流のスポーツ選手などがそうだ。
それが幸せか否かはその人にしかわからないが、若い頃はは可能性がありすぎて、まさに「二兎を追う者は一兎をも得ず」になってしまったという、自分のような人間もいる。
選択肢が3種類しかないと、案外それは「洗練され」「厳選され」そして「選ぶのが楽」だ。
夢を削りながら生きることは、実は不幸ではない
「夢を削りながら年老いていく」ことは、実は不幸とは限らない。
夢は削ったほうが、むしろよいこともある。
夢を見るのは子供で それを叶えるのは大人
…これは、十代の頃に書いた「ポエム」の一節だ。
ポエムなんぞ久しく書いていないし、今更読み返すのも赤面せずにはいられないのだが、今になると「なかなかおぬし(十代の自分)、わかっていたようじゃな」と頷いてみたくもなる。