江戸時代に存在していたとされる福岡城。
今では当時の姿はほぼ消滅し、「城跡」として現代の時間を生きています。
城跡ほどもどかしく神秘的なものはないかもしれません。
確かにそこに建物があった。人々の暮らしがあった。歴史を動かすような大きな役目を担っていた。
そんな風に伝え聞かされても、今はもう、かつての建物のほとんどは失われ、住む人もいません。
城の在りし日の姿を想像してみます。
天を衝くような立派な天守閣がそびえていたか。その姿は堂々たるものだったのか。きらびやかで人々の羨望の的となるようなものだったか。
すべての過去は何層もの時間が多い尽くしてしまいました。
けれど、もしも城の在りし日の姿が残っていたなら、むしろそれを過去のすべてだと、単純にとらえていたかもしれません。
遺構や遺跡は過去のほんの一部。
「城跡」は、現存するお城と同じくらいに過去を伝えてくれます。
福岡城ができるまで
福岡城と黒田藩
1600年の関ヶ原の戦いの功績により、筑前一国52万3千石(今の福岡県)を得た黒田孝高(大河ドラマ「軍師官兵衛」では岡田准一さん演)と長政(松坂桃李さん演)父子。
豊前中津(大分県中津市)より、小早川隆景の居城だった名島城(福岡市東区)に入城しました。
しかし…名島城は52万石の城下町には狭い! なんか東に片寄りすぎている!
とされ、新たな城として作られたのが福岡城(完成したのは江戸時代初期の1607年)。
以降、廃藩置県が実施された1871(明治4)年までの272年間、黒田家はこの城を拠点に筑前を治めました。
福岡城は、福岡にあるお城だから福岡城?
いや、実は逆なのです。
藩主となった黒田家の故郷が、備前国(岡山県)邑久郡福岡というところで、その名にちなんで付けられたそう。
福岡は、例えば野球の「ホークス(もとは大阪)」や、サッカーの「アビスパ福岡(もとは静岡の藤枝ブルックス)」など、外様っぽいものが多いのですが、まさかの「地名」も…
これも破壊と再生を繰り返してきた福岡ならではですね(?)
福岡城が造られたころの町の風景
福岡城は今、きれいに整備され、現代的で洗練された街に風格と癒しを与えるランドマークとなっています。
広い道路には絶えず車が行きかい、オフィスビルなどが立ち並ぶこの場所…は、福岡城が造られた当時にはただの「浜辺」だったとは、ちょっと想像できません。

かつてこの場所の北側には、博多湾の浜辺が広がっていました。今よりもずっと海岸線が陸地に近かったことになります。ここは埋め立てられ城下町へ姿を変えていきます。
西側は入江(草ヶ江。今の大濠公園)。西側はこの頃にはまだ内陸部まで海が続いていましたが、少しずつ埋め立てられ、現在のような完全な陸地へ姿を変えていきます。
南側はほぼ丘陵地(赤坂山)。丘陵地には本丸が作られ、切り崩して狭い堀を通してお城を囲んでいたとか。その後、赤坂山はさらに切り崩されて、現在のような完全な平地に(赤坂への門として「赤坂門」の名称は現在でも残っています)
東側は、この時代にはすでに陸地だったようですが、堀を巡らせてお城を囲んでいたようです。

国史跡「福岡城」…の下にも500年前の国史跡!
実は福岡城があった場所には、お城が造られる千年も前にも重要な施設がありました。
外国との交流を行っていた鴻臚館です。後に「国指定文化財(国史跡)」となっています。
築城当時に「国指定文化財」という制度があったとすれば、けしからんことに「文化財の上にお城を造った」ことになります。
とはいえ、鴻臚館が廃れたとされるのは12世紀頃。福岡城の築城は17世紀初め。500年間もの時間が、その間に流れています。
2000年代の今から500年後というと、西暦2500年ぐらいということになりますが、そんな先のことはわからないし、未来の人もそんな昔のことは知らん、という感じでしょう。
もしかしたら、「昔ここに何かの施設があったらしい」という噂くらいは残っていたかもしれませんが。
ただ、長い時を経て、再びこの場所がお城の場所として選ばれたのは、恐らく「適していた」からだと思います。
お城を造るに便利な場所として。そしてお城にふさわしい風格を持った場所として。
現在この一帯には、超高級住宅地や大手企業(の支社)、市民のオアシスである大濠公園などもあり、今なお人を惹きつける場所です。歴史を感じさせるものはお城の堀くらいしかないのに、福岡の他の街とは違う、ゆったりとした空気や風格が漂っている感じがします。
これこそが、古くから土地の持つ力で、過去と今とが混じり合う「時間のたまり場」なのかもしれません。
映えない⁉ 福岡城の造り
質実剛健が黒田家の教え!
福岡城は、例えば金のしゃちほこの名古屋城や、迫力ある大阪城などのデザイン性の高いお城とは違い、質素なものだったと言われています。
外郭は殆ど土塁で、城門や櫓のつくりも質素。
もし今でも福岡城が在りし日の姿を残していたとしても、あまり「映えない」お城だったかもしれません。
というのは、お城が「映え」を意識したのではなく、真に固く強い守りを目指した実戦的な造りだったからだと言われています。角度が急で大きな石の階段、鉤型の通路など、登りにくく攻めこまれにくくなっています。
これは、黒田家の教えからきているとか。
長政の代から、「贅沢をするな。見栄を張るな。大きな屋敷を構えるな」という3則が幕末まで藩祖の遺訓として続いていたとか。長政自身も平時は倹約を旨とし、食事も一汁二菜だったそう。
福岡城のつくり
- 石垣
- 石垣の石は、廃城になった名島城、平尾、高宮の古墳等近郊の遺跡、元寇防塁、糸島の可也山等の石が使われた。
- 野面積み(大きく自然石を積み上げた)と割石積み(粗削り石を積み上げた)の2種類。
- 鏡石(東御門近くの石垣)は城主の権力の象徴。
- 門
- 鉄 御門
- 本丸から天守曲輪へ向かうための門。石垣の上に櫓や堀が巡らされ上から攻撃できる。
- 名島門
- 今では舞鶴公園(福岡城の別名「舞鶴城」から命名)への入り口となっている門。
- 名島城(現在の福岡市東区)が廃城となったあと、あちこちを点々とした後、戦後にこの場所に移されたとされる。
- 下之橋御門
- 唯一現在も本来の位置を保っている。1873年の筑前竹槍一揆(約6万4千人が処罰)時の竹槍の傷跡が残っている。
- 鉄 御門


- 櫓
- 8万坪の縄張りを誇り、47の櫓を配したとか。
- 多聞櫓
- 南丸(二の丸南郭)の防御の要となっていた。16の部屋に分かれ、有事の際は小屋裏に編んでいた竹が槍や槍は武器に、竹を結んでいる干しワラビは食料にするというミニマリスト思考の櫓。建築当時の位置に今も存在する。
- 祈念櫓
- 僧侶が鬼門封じの祈りを行う場所である記念櫓。
- 崇福寺→大正寺(北九州)→崇福寺→元の場所に戻る(1993年)とあちこち移転した。


- 屋敷
- 御鷹(高)屋敷:官兵衛が余生を過ごした。本丸に住む長政に気を使い下の方に作ったとか。
- 現在、舞鶴公園では様々なイベントが開催されたり、四季折々に咲く花々(特にボタンとシャクヤク)を愛でたりと、市民に愛されています。
- お城以外には、福岡県庁や陸軍第12師団歩兵第24連隊が置かれたこともあったとか。
- 公園内には潮見櫓と武具櫓の復元が予定されています。
- 1906年、福岡城のお堀で植物学者の牧野富太郎が「ツクシオオカヤツリ」が発見!国内での自生はここだけ。
天守閣はあったのか?
福岡城に天守閣はあったのか? これについては今なお論争が続いています。
- 「なかった説」の根拠とは
- 幕府に遠慮して作られなかった(福岡という地は古くから何かと中央から抑え込まれてきたので、この説には一理あり?)
- 天守閣は無用の時代となっていた(福岡城が造られたのは戦国時代が終わった後。この頃の天守閣は軍事目的ではなく、単なる権威の象徴(要するに見栄?)になっていたという。黒田家のポリシーを考えると、天守閣なんか作るわけないよなあ…という説)
- 貝原益軒の『黒田家譜』や博多の古文書にも天守閣に関する記述はない。(記述がないからと言って、天守閣が存在しない理由にはならないが…)
- 「あった説」の根拠とは
- 幕府へ配意して壊した(最初はあったけれど壊したという説。一応、これを証明できるものはあり、細川忠興が父の幽斉に宛てた書状の中に、黒田が天守を取り除いたという記載が発見されたという記述があるとか?
私(書き手)としては…「なかった」方が「黒田家らしい」感じがするので、「なかった説」を支持したいと思います。
福岡城の魅力は、天守閣とかの単なる建造物なんかではなく、古くから何かの大きなパワーが宿る場所にあること、と思っているので!
土地の力は、建物の力よりも人の力よりも、ずっと古くずっと強いのだと、福岡の歴史を学ぶ中で感じています。
福岡城は「城跡」だけではない! 城下町も含めた福岡城についてはこちら!