アナザーストーリー それは伝説か歴史か?
日本は神々が作り出した国
いずれの御時にか――かつて、日本という「島」がつくられました。プレートの移動だとか火山の噴火だとか氷河期だとかのせいだという説もあり、もっともらしくも聞こえますが、実はもう一つ説があります。
日本という国(島)は、神(イザナギとイザナミ)が天上から棒でぐるぐるかき回してできたという説です。
神々は様々な方法で島を作ろうとしました。最初はちょっと失敗したらしいですが、その辺は省略するとして、とりあえず8つの島を生み出しました。
現在の日本の都道府県の中には、この時作られなかった場所もありますが、福岡(九州)は「ぐるぐる」で作られた島の一つに入っています。
…ということが「古事記」に書かれています。

神話、それは歴史のアナザーストーリー
神話という「もうひとつの真実」
『古事記』や『日本書紀』には、日本の成り立ちや神々の誕生が描かれています。そこに登場する神々は、驚くような方法で生まれ、時に残酷な行為を見せ、考古学的には首をかしげる話も多いのです。
実際、神々が島を生み、世界を創るという物語は、科学的にはありえません。けれど、神話は日本だけのものではなく、ギリシャやローマ、北欧などにも見られます。
『古事記』と『日本書紀』が描こうとしたもの
『古事記』や『日本書紀』は、日本という国を「文字」で形づくるために編まれたとされています。遺跡や遺物が過去の姿を伝える一方で、文字はその時代の「意志」を浮かび上がらせます。
他国の史書に自国がどう描かれているかを頼りにする時代に、日本は自らの言葉で「これが日本だ」と示そうとしたのです。
『古事記』は、天皇という存在の物語。血筋を神にまでさかのぼり、その正統性を語りました。
一方、『日本書紀』は中国など周辺諸国に向けた「正史」としてまとめられ、より公的な性格を持っています。
「事実」ではなく「意味」を読む
神話や記紀の記述には、後づけや辻褄合わせと思える部分も少なくありません。現代の感覚からすれば作り話のように見える箇所もあります。
しかし、それらは「嘘」ではなく、「意味を持った創作」です。大和朝廷の成立期には、各地の氏族が自らの祖先を天皇家の神々に結びつけようとし、物語を通じて自らの存在を記録しようとしました。
けれど、神話とは「虚構」ではなく「演出」だと思うのです。古代の人々の願い、そして編纂者たちの思いが、物語として巧みに表現されているもの。
つまり、『古事記』や『日本書紀』は、単に過去を記録したのではなく、「今と未来のために」書かれたものなのです。
信じる力が国をつくる
神話の真偽を問うことには、あまり意味がありません。大切なのは「信じること」です。
お金がただの紙切れでありながら価値を持つのは、人々がそれを信じているから。神話も同じです。信じることで、国や文化を形づくる力になるのです。
日本は今も「天皇制」という形で、神話を現実に宿す数少ない国のひとつです。神話は過去の遺物ではなく、いまを生きる私たちの現実の一部であり続けています。
非科学的で曖昧に見える物語が、二千年を経た現代にも息づいている。その事実こそ、私たちが「語られたもの」に価値を見いだし、「つながり」の中に意味を見ている証なのでしょう。
神々と人との境界がまだあいまいだった時代、人々は畏れ敬い、神を祖先として祀りました。
神とは、ただの昔話の登場人物ではなく、敬うべきもの、畏怖すべきもの、そして奉る存在。
神話は、私たち自身のルーツをたどるための「もうひとつの地図」なのです。
「ぐるぐる」で作られた8つの島
さて、神話のとらえ方について述べたところで、イザナギとイザナミが作った8つの島を整理したいと思います。(古事記と日本書紀では生まれた順番が異なるそうですが、そこは考慮せず)。
- 淡道之穂之狭別島(淡路島)
- 伊予之二名島(四国)
- 胴体が1つで顔が4つある
- 愛比売(伊予国)、飯依比古(讃岐国)、大宜都比売( 阿波国)、建依別(土佐国)
 
- 隠伎之三子島、別名:天之忍許呂別(隠岐島)
- 伊伎島、別名:天比登都柱(壱岐島)
- 津島、別名:天之狭手依比売(対馬)
- 佐度島(佐渡島)
- 大倭豊秋津島、別名:天御虚空豊秋津根別(本州)
- 筑紫島(九州)
- 胴体が1つで顔が4つある。
- 白日別(筑紫国)
- 豊日別(豊国)
- 建日向日豊久士比泥別(肥国)
- 建日別(熊曽国)
 

白日別(筑紫)は、筑紫国魂の神として筑紫神社の主祭神として祀られています。
豊日別(豊国)は、行橋市の豊日別神社に祀られています。
この後、さらに多くの神々が生まれ、福岡はいくつかの神話の舞台となっていきます。
歴史の最初にも福岡は「神セブン」ならぬ「神エイト」の一員として名を連ねていたのでした。
日本の黎明期と福岡(博多湾と住吉三神)
イザナギから生まれた神々
神話によると、女神・伊邪那美命はたくさんの神々を産み落とした後、火の神を生む際にやけどを負い、死んでしまいます。男神・伊邪那岐命は、イザナミ会いたさに黄泉の国を訪ねますが、イザナミの体は腐って崩れており、イザナギは命からがらその場から逃げだします。
黄泉の国の穢れを落とすため、イザナギは小戸阿波岐原で禊を行ったところ、その体から次々と神々が生まれます。
例えば、
- 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
- 綿津見三神(底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神)
- 三貴子といわれるアマテラス、ツキヨミ、スサノオ
が誕生します。

住吉三神(住吉神社、現人神社、若久住吉神社)
みそぎを行った小戸阿波岐原とは、今の博多湾。具体的な場所は、今の現人神社(那珂川市)のそばです。現在の那珂川市は海から遠いのですが、古代の博多湾の海岸線は現在よりも内陸に入り込んでいたので、現人神社辺りも海でした。
現人神社は、今の住吉神社(博多区)のルーツです。住吉神社は、繰り返される那珂川の氾濫で海岸線が後退し、その都度海に近い場所へと、何度か所在地移り変わっています。
若久住吉神社もその一つ。
こういった伝説から、現人神社(住吉神社)は、全国に2000余社ある住吉神社のルーツだとされているのです。
…ここまでの説は、実は一般的ではありません。小戸阿波岐原は、一般的に宮崎県の日向地方(江田神社)だとされています。でも、このサイトは福岡について書いているので、「イザナギは博多湾でみそぎを行った」と言うことで話を進めます。ちなみに、「博多湾説」を唱えているのは、貝原益軒(江戸時代の本草学者、儒学者)です。
また、住吉神社も、博多は「三大住吉」の一つですが、大阪にある神社が「総本山」とされています。
まあ、神話のお話ですので「真偽のほど」など気にせずに、「そういうこともあったかもしれない」と気楽に考えていきましょう。


綿津見三神
綿津見三神は、博多湾を本拠地とした安曇族の始祖とされています。
安曇族とは、古代の海の民(海人族)。倭人、韓人、漢人という区分けも明確ではない時代(紀元前)に、朝鮮半島や中国沿岸と日本列島を股にかけ、対馬海峡や玄界灘を我が庭のように暮らしていたといわれています。
志賀島・博多湾を拠点に活躍し、大陸から航海、漁労の技術、移住者を伝え、水稲農耕技術を北部九州に伝搬させたのも彼らだという説も。

宗像三女神
スサノオは、イザナギから海原を治めるよう命じられますが、亡きイザナミに会いたいと泣き続け、天変地異を引き起こします。そのためイザナギに追放され、高天原にいる姉アマテラスに挨拶しようと天に昇ります。アマテラスはスサノオが国を奪いに来たと疑い、武装して対峙。スサノオは潔白を証明するため「誓約(うけい)」を提案します。
その時に誕生した神々が、宗像三女(田心姫神/沖ノ島、湍津姫神/筑前大島、市杵島姫神/宗像大社)です。
現在は、宗像・沖ノ島と関連遺産群として、世界遺産に登録されています。
沖ノ島(沖津宮おきつぐう:田心姫神)
島全体が御神体となっています。古来より、「お不言さまおいわずさま(島に立ち入り見聞きした事を口外してはならない)」と呼ばれ、現在でも女人禁制(女神のため嫉妬されるとか)、男性でも上陸前には禊を行なうこととなっています。
4~9世紀までの500年間、国家繁栄と海上交通の安全を祈るヤマト王権の国家的祭祀場として重要な位置を占めました。
古代祭祀遺構や装飾品などの大量の祭祀遺物(奉献品)、縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器などの遺物が発見されたことから、「海の正倉院」と呼ばれています。
筑前大島(中津宮なかつぐう:湍津姫神)
辺津宮から11km離れた筑前大島に、沖津宮遥拝所(瀛津宮)があります。
宗像大社/辺津宮へつぐう:市杵島姫神
宗像大社の高宮斎場は宗像三女神の降臨の地です。
古代から大陸と半島の政治、経済、文化の海上路であったことから、現在では、交通安全の神として信仰を集めています。車に装着する交通安全のお守りは宗像大社が発祥とのこと。


神功皇后伝説を辿る
神功皇后伝説
さて、イザナギ時代から時を経て、初代神武天皇から数えて14代目の仲哀天皇(ヤマトタケルの子)時代。天皇は、熊襲の征伐のために、息長足姫命(のちの神功皇后)とともに福岡に入ります。しかし、天皇は急死。
皇后は天照大神の神託に従い、朝鮮に出兵することにします(三韓遠征)。おなかの中には応仁天皇がいたため、鎮懐石という石をお腹に当てて出産を遅らせます。そして、男装して海を渡り、新羅をはじめとする朝鮮半島の国々を征服します。
帰国した神功皇后は無事に、第 15 代の応神天皇を出産します。
福岡には神功皇后に関する足跡があちこちに残されていて、ものすごく活躍したことがうかがえます…が、神功皇后って、誰なん? 
実は、戦前は教科書やお札にも描かれていたほど、日本人の「常識」だったそう。しかし、神功皇后は「三韓遠征」の伝説から、「富国強兵(戦争)」を想起させるため、戦後は出番がなくなったようです。
ただ、仲哀天皇との仲睦まじさ、応神天皇の母と言う立場から、現在では「縁結び」や「安産」の神様として祀られているとか。
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宮地嶽神社
渡韓の折にこの地に神功皇后が滞在し、宮地嶽山頂より大海原を望んで祭壇を設け、「天命を奉じてかの地に渡らん 希はくば開運を垂れたまえ」祈願の上船出されたとされています。

香椎宮
天皇皇后が滞在し、仲哀天皇が亡くなった場所。その場所は「橿日宮」とされ、跡地が「古宮跡」として残っています。神功皇后は仲哀天皇を弔うため、廟所(香椎廟)を作りました。帰国後は、ここで御産所を占い、詔にしたがって「蚊田の邑」へ向かうことにします。


宇美八幡宮
神功皇后は、蚊田の邑(宇美町)に到着して応仁天皇を出産されました(生み=宇美)
境内には、応神天皇の出産にまつわる御神木や水源があり、今では安産の神様として全国的に有名です。

箱崎宮
神功皇后が応神天皇の胞衣を筥に入れて埋めたことに由来すると言われています。
この筥と、標として植えられた松の木「筥松」から「筥崎」の名が生まれたそう。

現人神社
現人神社は、イザナギがみそぎを行った場所としても出てきましたが、他にも神話にまつわる伝説が残されています。
三韓遠征のおり、住吉三神が現人神となり、嵐を沈め、航海の安全を守りました。帰国した神功皇后は、海岸に現人神を祀り、これが現人神社の起源とされています。日本と新羅、高句麗、百済とが無事に国交を結ぶことができたため、現人神社の神様は仕事を成し遂げる上で助けてくれる「仕事運の神様」として知られています。

「裂田溝」(さくたのうなで)
『日本書紀』によれば、裂田溝は神助に感謝した神功皇后が、住吉三神に捧げるための神田を灌漑するために造らせた用水路だそう。この土木事業は、途中、大岩に阻まれ難航します。皇后は、武内宿禰を遣わし、迹驚の岡で天神地祇に祈ると、雷が落ち、岩を蹴り裂いて水を通させました。
神話のお話ですが、実際にこのあたりでは古墳や甕棺墓が発掘されています。
この他の神功皇后伝説の場所

- 姪浜の袖浜
- 朝鮮半島から帰着した場所
 
- 原田(現在の東区の地名)
- 神功皇后が、香椎宮を出て芦津の浦(福岡市箱崎)を過ぎたあたりで陣痛が起きた場所(「はらいた」から「原田」に)。
 
- 日守八幡宮(粕屋町阿恵)
- 道中、「日を守りたまいて(太陽をじっと見て)今何時か」と尋ねられたときに、座っていた石(日守石)。
 
- 御手洗
- 皇后が手を洗った川。
 
- 方ヶ島(志免町大字志免)
- 御産所の方角を尋ねられた場所(形が丘のようになっていた地)。
 

