博多駅からまっすぐ伸びる「大博通り」を10分ほど歩けば、御供所地区と呼ばれる地区にたどりつきます。ここは、古くは博多の寺がひしめく一大寺院地区。今ではビルや道路に囲まれているものの、スマホから顔をあげて見回せば、いくつもの寺が存在しています。
博多の寺の数が、京都に次いで全国第二位であるというのも、この通りを散策すれば納得できます。
江戸時代には武士の町である「福岡(現在の天神から大濠公園あたり)と、商人の町である「博多」と位置付けられていましたが、今ではそんな古い時代の感覚は忘れ去られ…ていないのが、伝統を大切にするこの地区。博多の下町風情が今もそこかしこに残っています。
お寺や神社は古いものだと千年以上前に建てられたものもあり、創建当時のことは誰にもわかりません。このため、今に伝わる由来やエピソードの中には真偽のほどが定かではないものが多数…。むしろ、真実の方が少ないのではないかと思うこともあります。
とはいえ、今ここにお寺や神社といわれるものがあり、多くの人が「特別な場所」だと認識していることは事実。
神社仏閣にまつわる物語が例え嘘だったとしても、「嘘は(その神社仏閣を大切に思う人々の)愛」だと思って「推し」ていけばよいと思うのです。
妙楽寺【ういろう発祥伝説の寺】
妙楽寺(安国山妙楽寺)は、ういろう発祥の地と言われています。
この寺に住んでいた、元(中国)の陳外郎宗奇という人物が、中国の「透頂香」という胃腸薬を日本に伝え、彼の名をとって薬を「外郎(ういろう)」と名づけられました。この薬は苦かったので、口直しとして本粉で作った菓子を添えるようになったとか。これが現代の和菓子「ういろう」となりました。
1316年、大応国師の高弟である月堂宗規により開山。当時の寺地は博多湾岸で、近くに石築地(防塁)があったことから「石城山妙楽円満禅寺」といわれました。1586年に全焼しますが、1602年に福岡藩初代藩主、黒田長政により再興。

- 寺が博多湾岸にあった頃、外門は潮音閣、山門は呑碧楼と呼ばれていた。(本堂には今も「呑碧」の文字が掲げられている)
- 遣明使の宿泊施設として対外交渉の一拠点となっていた。
- 博多豪商三傑の一人神屋宗湛の墓がある。
- 開山堂は別名「水月庵」と呼ばれている。
龍宮寺【巨大人魚伝説の寺】
龍宮、といえば「龍宮城」が連想されますが、それはこの寺にまつわる伝説から。
お寺が創建された平安末期頃、この辺りは海に近く、潮が満ちると境内が浸水することから、当時は「浮御堂」と呼ばれていたそう。
時代が下って1222年、博多津に人魚が打ち上げられる、という大事件が!
大きさは八十一間(約145.8m)。福岡ドームのグランドの長い部分が122メートルくらいらしいので、それよりまだ長いという、とんでもない大きさです。
早速、鎌倉の幕府へ知らせが入り、朝廷からは冷泉中納言が検分に来て浮御堂にしばらく滞在することとなります。人魚をどうするか…。「不老長寿の妙薬」として人魚を食べようとした者もいましたが、占いにより「この人魚は国家長久の瑞兆である」とされたため、手厚く葬ることに。
冷泉中納言が滞在した浮御堂に人魚を埋め、人魚=龍宮城というインスピレーションから、寺の名前を「龍宮寺」と改めました(山号も中納言にちなんで冷泉山に。現在の地名である「冷泉町」はこの冷泉山が由来とか)。
龍宮寺の境内には人魚塚が建立され、本堂内には人魚の絵の掛け軸と共に、人魚の骨が安置されているとか。明治頃までは、骨を浸した水を参拝者に振る舞うという行事もあったそうです。
巨大な人魚伝説…を信じるか信じないかはあなた次第。
蓮歌師の宋紙は1480年に博多、大宰府をめぐる際に龍宮寺を宿としたそう。
山口から博多を巡った際に記録した「筑紫道記」で「博多は大船が入港し、町屋が軒を争い、姪浜辺りは塩づくりの塩屋が立ち並ぶ」と描写しました。
当時の博多及び姪浜辺りの町の様子がうかがえます。
海元寺【観音様と閻魔様を平等に祀る寺】
観音堂には観音様達が、閻魔堂には閻魔様達が、隣り合わせで祀られているお寺。(毎年、初閻魔(1月16日)と閻魔大祭(8月16日)に開帳される)
閻魔像は入定寺から移されたもの。
三途の川で着物を剥ぎ取る「奪衣婆」の像も。このお婆さんに「こんにゃく」をあげると病気の「あく」を取ってくれると言われており、博多では「こんにゃく婆さん」の名で親しまれています。
また、海元寺閻魔祭(1、8月)で参詣者が大根をお供えする風習も。

善導寺【夢のお告げと木像の伝説の寺】
善道寺は「夢のお告げ」から作られました(そういった神社仏閣は全国に沢山ありそうですが)。
1212年、1人の僧が中国から博多へ向かう際、海で嵐に遭い、船板に「南無阿弥陀仏」と書き海に投げ込むと、波風は静まり無事博多に到着します。一方、その頃豊前彦山で修行中だった聖光上人は、霊夢で「私は中国の善導である。博多に着いたので迎えに来られよ」とのお告げをうけ、博多津で善導大師の木像を発見! 上人は近くの法相宗の廃寺にその木像を安置、善導寺として浄土宗に改宗したそう。
創建当時には、百の説法が行われていたので博多談義所とも呼ばれたとか。
- 寺内には室町時代の木造善導大師立像、朝鮮高麗時代の地蔵菩薩像など、多くの文化財を所蔵。
- 博多の豪商で文化人としても知られた松永子登、宗七焼の正木宗七代々の墓なども。
祥勝院【人形供養の寺】
祥勝院では、毎年12月の第2土曜に人形供養と博多形作家物故者慰霊祭が行われています。
江戸時代の博多人形師である正木宗七作の「延命地蔵像」が境内で発掘され、祥勝院と博多人形との深い関わりがあるとされたことから、1979年に供養が始りました。
1312年、聖一国師の高弟である南山士雲により開山したお寺です。
- 寺院内に博多人形の創始者から4代田にあたる正木宗七作の延命地蔵を本尊とした人形堂や、大心和尚の寿像がある。
妙典寺【僧侶 v.s. キリスト教宣教師の宗論伝説の寺】
江戸時代、京都妙覚寺の僧侶(日忠)と、キリスト教の宣教師がこの寺で宗論を行ったそう(「石城問答」と呼ばれる。石城とは博多の別名)。宗論に勝ったのは僧侶。黒田長政は没収したキリスト教会の土地を付与し、勝立寺(現在、天神にある)を建立させのだとか。
- 1381年、円理院と称して、本成院日円上人により柳川に創立されたとされているが、事実は不明。
- 1603年、地元有力者であった立花宗茂の家臣、薦野増時によって現在の境内地が提供され、博多に於ける法華経の道場として、また薦野家の菩提寺として再出発を図った。
- 現在の本堂は、1785年に再建されたもの。福岡大空襲では焼失を免れた。
一行寺【近代文化にゆかりのある寺】
一行寺は、文学や政治など近代文化にゆかりが深いお寺です。
- 九州俳壇の重鎮であった河野静雲(1887~1974年)はこの寺生まれ。
- 「ドグラ・マグラ」で有名な作家である夢野久作の墓がある。
- また、夢野久作の父であり、政治団体「玄洋社(旧:向陽社)」と関わりのある政財界の黒幕である杉山茂丸の墓もある。
- 1444年に博多辻の堂に開山。寛永年間(1624-1644)に福岡藩より現在地を賜り移転。
- 一行寺の山門前は旧唐津街道、東側の石堂橋は博多の町の玄関口であった。当時の門前は博多の町への出入りの人々でにぎわったようである。
- 「筑前國続風土記拾遺」によれば開山僧は照阿上人(志免町の西福寺も開山)。
- 一行寺本堂には、明治の神仏分離以前に若八幡宮の本地仏であった阿弥陀如来像が安置されている。。
正定寺【名島城から来た寺】
- 正定寺は、博多寺町の北のはずれの御笠川沿いに伽藍を構えていいます。現在の本堂は、名島城より移設されたもの(元禄年間(1688-1704)の建物。 小早川隆景居城当時の切腹の間が残されている※一般非公開)。
- 仙涯和尚の直筆の文字で「八丁へ」と赤文字で刻まれている墓石は、西頭徳蔵(博多松囃子(博多どんたくの源流)の「通りもん」の創始者と言われる)の墓。(西頭徳蔵の通称が八丁兵衛だったとか)
- 1492~1501年に開基。建暦2年1212福岡市蓆田青木(現:福岡空港東側)にて開基。 その後、明応9年1500大内義興の母正定院、筑後善導寺第16世感誉上人に帰依し博多奈良屋南側に正定寺を再建移転し、 上人を中興開山とす。」とあり、その後、現在地に移転、福岡城の出城となる。
- 感誉上人正定寺の名前の由来は、「筑前國続風土記」によると、威誉上人が筑後國善導寺の住持であった時、周防の大内義興の母正定院が威誉上人に帰依し、寺領等を寄付したことから。
- 福岡大空襲時の焼夷弾の破片が残されているが非公開。
行願寺【最澄らの渡唐の無事を祈った寺】
天台宗海印山行願寺は、804年、天台宗祖の最澄が遣唐使の一行として渡唐される際、海上の安穏安全無事を祈願して秘法を厳修されたお寺です。
福岡大空襲で被災したが、1987年から15年をかけて現伽藍を再建しました。

そのほかのお寺
- 選擇寺
- 浄土宗の寺院。1574年、行誓覚公和尚により創建。江戸時代初期には住吉妙円寺の松寺となる。本尊として本尊阿弥陀如来像が祀られている。
- 西教寺
- 西門橋の対岸に見える寺。風情がある。
- 妙行寺(南区野間へ移転)
- 福岡大空襲で焼失。
- 大乗寺(大正時代に中央区へ移転し戦禍で焼失)
- 806年、空海が開き、黒田忠行が復建した。