- 福岡の北にある「玄界灘」は怖く暗い海
- その暗さが福岡の歴史を作ってきた
暗く荒れる玄界灘、その潮風に翼も鍛えられる
玄界灘では翼が鍛えられるほどの潮風が吹く
福岡の海、北に向けて広がる海域は玄界灘と呼ばれています。
玄界灘、というと、
♪玄界灘の潮風に鍛えし翼たくましく~♪
というフレーズがとっさに口をついて出てくる、という福岡県民は多いはず。
野球の12球団の中で、もっとも素晴らしい応援歌(だと思っている)「いざ行け若鷹軍団」の歌詞、その一番最初に出てくるフレーズです。
どこかに「玄界灘」とやらが存在し、翼が鍛えられるほどの潮風が吹いている、ということを謳った歌詞からは、玄界灘の荒々しく強いイメージが伝わってきます。
それは、本当のことです。
怖い、暗い、Cry…玄界灘
誰が名付けたか「げんかい」灘という名称、なんだか怖くて暗い響きです。
そもそも「玄」は暗い・黒いという意味。また、「げんかい」という響き、も「限界」や「厳戒」といった同音異義語を想起させます。
暗くて黒い世界、この世の終わりでぎりぎりの状態、緊張感とか絶望すら感じさせる響き…。
げんなりするほどの限界感、厳戒感…玄界灘はまさにそのイメージ通りの海です。
春から秋にかけては穏やかな風景を見せてくれますが、冬になると北西から吹く季節風の影響で、荒れ狂う海へと姿を変えるのです。
日本海側特有のどんよりとした気候が、玄界灘と福岡全体を覆い、景色を薄墨色に塗りこめていきます。
命を繋いできた玄界灘と対馬海流
玄界灘は暖流(対馬海流)の通り道です。
対馬海流は、九州の南西部で黒潮から分かれ、九州の北を通り、日本海の本州沿岸にそって北上し、樺太西岸の沖合い、また津軽海峡・宗谷海峡を通って太平洋・オホーツク海までの長い旅をする海流です。
この海の仕組みと、北西の季節風と対馬海流が、玄界灘を荒々しい海にするのだそう。

ただし、玄界灘には水深約80メートルに大きな大陸棚が広がっており、そこは魚介類にとってのパラダイスとなっています。
「Finding nemo?」、それとも「Little Mermaid?」
海の中ではディズニー映画のように、明るい世界が広がっているかもしれません。
そして、そんな風に玄界灘の海で楽しく暮らす魚たちのところに、ある日、釣り糸が降りてきて…という、「およげたいやきくん」のような哀しいストーリーが続いていくわけですが、魚たちは古い時代から人々に食料をもたらし、今日にいたるまでの命を繋いでくれたのです。
今でも玄界灘では、今でも多くの魚介類がとれ、釣り人に人気です。
海の向こうにあるもの
新生代に日本列島が形成された頃は、朝鮮半島と陸続きで、日本海は巨大な湖だったとのこと。その後、第四期の頃、玄界灘が形成されたとされています。
ちなみに第四期とは約260万年前から現在まで。
いわば玄界灘も私たちも同時代に生まれた同世代ってところですね(!?)
まあ、昭和元年と60年代生まれの人では、同じ昭和でも同世代とは言わないのと同じで「一緒にするな」という話ですが。
やがて、海は、大陸から多くの訪問者や文明を運んでくるようになりました。
石器、鉄器、青銅器、銅器は人々の生活を便利に変え、稲作は文化を変え、国づくりに大きく貢献しました。
あるいは争いの元を作り出してきました。
海の向こうから人々やモノ、海を渡って異国へ渡る人々やモノ…
異なる様々なものが行きかい、まじりあい、入り乱れ、多くの物語や歴史が誕生してきました。
もちろん、良いこと楽しいこともあれば、そうではなく苦しく残虐でいたたまれないほどの出来事もあったかもしれません。いや、もしかしたら後者の方が多かったかもしれません。
荒々しい玄界灘では、古くから多くの人々が命を落としてきました。
海に溶け込む涙は波に、届かぬ想いは重く沈んでいったことでしょう。かつて、今のように多くの情報を持たない人々は、どんな思いで海を眺めていたのでしょうか。
飛行機も衛星通信もない時代、船で行き来をするのは命がけ。多くの人々が命を落としてきました。
海は歴史を翻弄してきたのです。
玄界灘が明るい海だったら…
もしも玄界灘が、太平洋のような明るい海だったら…。
例えば、土佐の桂浜のようにきらめくような大海原を眺めることができていたら、異国への想いも全然違っていたものではないでしょうか。
今現在のことだけではなく、「日本の夜明けぜよ」と、人々(というより、そこに暮らしていたR.Sさんのような人)は、未来に想いを馳せていたかもしれません。
でも、そうではないのです。
玄界灘は、暗く怖い海。
そして、その向こうにある脅威は、常に福岡を緊張感にさらしていました。と同時に、ジタバタしてもどうにもならない、という諦めも。
玄界灘の西に確かに存在する不気味な場所と福岡の間には、冷たい水と緊張感が広がっており、それが海を深く暗い影にします。
波打ち際は一つの境界。
陸と海との間の。地と空の間の。自分が立っている狭い場所と、世界をつなぐ広い場所との。
それは「土や砂」という固体と「海水」という液体との境界だけではなく、ここまでは自分のエリアで、ここからは別の世界だという境界。
海を前にすると、恐れと憧れが同時に襲い、一度は歩みが止まります。
このまま進んでいくと、足は波にさらわれ、やがて体は水で満たされていくのでは…。
泳ぎが達者だとしても、何処かへ行き着くのは難しいかもしれません。
人間はいつまでも泳ぎ続けることはできないのだから…。
けれど、海の下はすべての土地は陸続き、そして、頭上には果てなく広い空が独占しています。
心の中の恐れと境界を忘れたら、最初から地球は一つにつながっているのです。