- 鴻臚館とは、日本で唯一存在が確認されている、飛鳥時代に作られた迎賓館。
- 福岡城史跡(江戸時代)の一部が、鴻臚館跡としての国史跡にも指定されており、珍しい二重の国史指定となっている。
鴻臚館は歴史の層の下の、またその下から発見された
鴻臚館は、かつて福岡にあったとされる迎賓館ですが、歴史の地層に埋もれ、長い間その存在すら疑問視されていました。
ところが1987年、鴻臚館の遺物が大量に発掘されたのです。
鴻臆館は平安京(京都)や難波(大阪)にも存在したと言われていますが、福岡(筑紫)だけが現代によみがえりました。
長い間鴻臚館が発見されなかったそのわけは?
鴻臚館が設置されていたのは、7世紀初めから11世紀くらいのことで、建物が11世紀まで存在したとして、発見されたのはそれから9世紀ほども経ってから。
というのは、鴻臚館の遺跡の跡に福岡城が築城されていたからです。
その福岡城も壊されたあとの1987年当時、その場所は「平和台球場」となっていました。
その後、平和台球場を本拠地としていた「ダイエーホークス」は福岡ドームへ、鴻臚館跡は整備されて展示館へ(現在も調査中)。
今では「福岡城」と「鴻臚館」という異なる時代の遺跡が同じ場所に存在し、二重に国指定の重要文化財の指定を受けているという珍しい場所です。
鴻臚館の前には砂浜が広がっていた
鴻臚館跡は、福岡市の中心地「天神」からも近く、地下鉄「大濠公園」の駅からもすぐの場所にあります。
福岡城のお堀が四季折々の美しさを見せ、広い道路沿いに近代的なオフィスビルが立ち並ぶ光景は、福岡市の中でも「美観エリア」の一つといえるでしょう。
しかし、かつては建物も道路も、そもそも陸地さえありませんでした。
鴻臚館の目の前には海と砂浜(那津のほとり)が広がっていたのです。
以下は当時の想像図。

海があった(であろう)部分は青く塗っていますが、おおざっぱにイメージを伝えるための図なので、厳密なものではありません。
天神も草香江エリアも海ですが、湾になっているので、きっと浜には松林、時折響き渡る鳥の声、猟師や向こう岸に渡ろうとしている人々の小さなの船が浮かんでいるような穏やかな海…
そんなのどかな光景だったのではないかと思います。
鴻臚館は外交施設だった
福岡は、大昔から常に大陸からの訪問者の玄関口となっており、稲作や仏教を初め、あらゆる大陸の文化がこの地を経由していました。
そこに迎賓館が造られたのは自然の成り行き。
飛鳥時代には、中国・唐の商人や朝鮮の新羅などの外交使節らが、盛んにこの地を訪れていました。
多くの人々が、異国から倭国を目指して、文字通り荒波を乗り越え、博多湾入り口にある志賀島にたどり着き、博多湾を進むと荒津山、そして鴻臚館前の浜へとたどり着きます。
鴻臚館跡地からは、中国からの陶磁器、朝鮮(高麗)からの陶器、イスラム系陶器やぺルシャ系ガラス器など、様々な国の出土品が発掘されており、当時倭の国の人々は興味深くそれらを手に取っていたことでしょう。
海外からの訪問者たちは、まず鴻臚館に入館して旅の疲れを癒してから、目的地(大宰府や都)へ向かいました。福岡から異国へと旅立つ大勢の人も、鴻臚館は見送ってきたのです。
もしも鴻臚館の壁に(大衆ラーメン屋みたいな)サイン色紙がベタベタ貼られていたとしたら…
きっと、以下のような方々の色紙が並んでいたのではないでしょうか。
鴻臚館を利用した(と思われる)著名人を挙げてみます。
・小野妹子(遣隋使。608年に筑紫に帰着)
・阿倍仲麻呂、吉備真備(遣唐使。717年、唐へ)
・鑑真(唐の僧。753年、来日し大宰府へ)
・空海、最澄(遣唐学問僧。804年、唐へ)
まさに「そうそうたる」メンバー!
鴻臚館の役割は歴史と共に少しずつ変わっていく
【行政機能を持っていた】大宰府への玄関口
鴻臚館は、大陸との交流が盛んになった600年前後に設置されたとされています。
当初、鴻臚館は行政機能も担っていたとされます。
鴻臚館に海外からの訪問者が到着すると、使者は馬を走らせて水城(大宰府を守る要塞)へ向かっていました。その後、大宰府から朝廷へ急使が向かい、朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、大陸からの「輸入品(経巻や仏像仏具、薬品や香料など)」を買い上げたそう。

【一度は泊まってみたい!?】宿泊付きのラグジュアリー迎賓館
日本に緊張が走った白村江の戦いの翌年(664年)、行政機能は大宰府に移転し、その後、平安時代の7世紀から11世紀頃までは迎賓館兼宿泊所として鴻臚館は活躍しました。
唐や新羅からの外交使節をもてなしたり、外国商人らの検問・接待・貿易を行ったり、また日本から唐や新羅へ向かう遣唐使、遣新羅使、留学生の宿泊施設として利用されたりも。
736年頃、新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌(『万葉集』に収録)
「今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴きぬ」
(今はもう秋になってしまったらしい。山の松の陰でひぐらしが鳴いている)
→都から派遣されてずいぶん経ち、もう秋になっちゃった。早く任務を終えて都に帰りたい、という歌だと解釈されています。
【改名!】実は鴻臚館と呼ばれるようになったのは平安時代
ここまで「鴻臚館」という言葉を使っていましたが、実は長く呼ばれていたのは「筑紫館(つくしのむろつみ)」の名称でした。
唐の鴻臚寺(外務省に相当する役所)にならって「鴻臚館」と改名されたのは、平安時代初期(800年頃)のことだそう。
ちなみに、「鴻臚」とは、賓客を迎える時、大声で伝達するという意味で、「鴻」とは大きな鳥の意から転じて「大きい」ということ。
【栄枯盛衰…】時代が変わり、そして終焉へ…
894年、菅原道真により遣唐使が廃止されました。
そして、903年の太政官符(公文書)によると、朝廷による買上前の貿易が厳禁されており、貿易が官営から私営に移行したとされています。
鴻臚館は唐商人の接待・外国人の検問や貿易などで利用されるようになりますが、有力寺社(聖福寺、承天寺、筥崎宮、住吉神社など)や有力貴族による私貿易が盛んになり、貿易の中心は東方の博多~箱崎あたりの海岸へ移りました。
その後、鴻臚館は「大宋国商客宿坊」という名称に変更されます。
かつて、そうそうたる人物を受け入れた鴻臚館が、なんとなくただの「宿屋」みたいなイメージに。
北宋、高麗、遼の商人とも交易を行うなど、細々と営業(?)を続けていましたが、鴻臚館はすたれる一方…。
1091年、宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述が残されていますが、これ以降は文献に鴻臚館の名は見当たらないようです。
鴻臚館は歴史から姿を消したのでした…
【ところが!】鴻臚館(と福岡城)の跡は不死鳥のごとく…
冒頭にも書いていますが、鴻臚館の跡はおそらく400~500年くらいはほったらかされ、その躯の上に福岡城が造られます。
中山平次郎(1871-1956年、考古学者)が、鴻臚館が福岡城内にあったと推定します(ちなみに氏は、元寇防塁の名付け親でもある)
推定だけの伝説の鴻臚館、しかし、20世紀の終盤によみがえり…
今や「市民の憩いの場」として愛されています。
ワンコフェスをはじめ、様々なイベントも開催され、今なお生き続けている場所なのです。
現在の鴻臚館跡展示室は、奈良時代後期(8世紀後半)に作られた南館の一部を復元したもの。堀を挟んで北館もあり、立派な施設だったことがうかがえます。