博多駅からまっすぐ伸びる「大博通り」を10分ほど歩けば、御供所と呼ばれる地区にたどりつきます。
ここは、古くは博多の寺がひしめく一大寺院地区。
ここでは、日本最初の禅寺「聖福寺」、空海の最初の寺「東長寺」、博多の古都の入り口となっている「承天寺」という、代表的な3つの寺を紹介します。
聖福寺【日本最初の禅寺】
聖福寺は都会のヒーリングスポット
国の重要文化財である聖福寺に一歩足を踏み入れると、都会のど真ん中なのに、どっしりとした大樹が作り出す木蔭と境内の静謐な空気が全身を包みます。
禅の、静けさ…。
禅とは何か、よくわからなくても、心がすっと解放されるような安らぎと心地よさを覚えます。
正直なところ、ゆったりとその場所を歩くだけでも、この場所に来た「価値」を感じるのですが、もうちょっとこのお寺のことを知ってみたいと思います。


「日本最初の禅宗の寺」伝説
聖福寺は日本最初の禅寺。
1195年に栄西禅師が鎌倉の将軍源頼朝公より現在地を賜り、後鳥羽上皇の震筆を得て禅宗の寺として建立しました。山門楼上には、建立の後に後鳥羽上皇から下賜された「扶桑最初禅窟」の勅額があり、これが最初の禅寺であることのお墨付きだとされています(扶桑とは日本国の異称で、日本最初の禅寺という意味)
栄西禅師は、日本における臨済宗(禅宗)の開祖。
栄西が建立した寺として建仁寺(京都)が有名だが、他に、寿福寺(鎌倉)、報恩寺(香椎)、千光寺(筑後)等がある。
「茶の発祥地」伝説
現在にまで至る「禅の精神」を日本にもたらした栄西…。
といった宗教的な話はさておき、栄西はもう一つ、現在の食生活に欠かせないものをもたらしています。
それはお茶。栄西は中国から茶の種子を持ち帰って境内地と背振山に植え、その後、山城の宇治や栂の尾に広めたといわれています。また「喫茶養生記」という書物でお茶のすばらしさを書き残したとか。
聖福寺は九州臨済第一の大寺だった
聖福寺は、鎌倉時代には今でいう大使館や、外国人の宿泊所的な役割もあったようです。
次第に発展して、38もの子院をもち、境内には寺中町を形成して九州臨済第一の大寺となりましたが、度重なる戦火に襲われ、現在残っているのは6院程度、境内もかつての4分の1に狭まっているとのこと。
寺内町の地名の中には、現在も博多の町に残っているものがあります(普賢堂、中小路、魚町、天屋、蓮池、西門など)。

仙厓さん物語
聖福寺が創建された頃(鎌倉時代初期)のエピソードには「伝説」的なものが多いのですが、聖福寺を代表するもう一つのエピソード「仙厓さん」については、江戸時代後半ということもあり、かなり真実が含まれているのではないでしょうか。
仙厓さん(仙厓和尚:1750年―1837年)は、高僧でしたが質素でユーモアもあった人柄だと言われています。
仙厓さんに会ったことのある現代人は誰もいませんが、仙厓さんの残したものは数多くあり、代表的なものがイラスト。禅宗の教えを一般の人がわかるようと描いた数々の絵は、現在でも博多の街のあちこちで目にすることができます。他にも「仙涯和尚語録」など多くの墨跡や遺品が残されています。
聖福寺で古の空気に浸る
国の重要文化財である聖福寺には、今現在も大切にされている建物や宝物が数多く残されています。


- 仏殿
- 重層入母屋作りの唐様仏殿が美しい仏殿。解体された開創時の仏殿を1953年に復元した。堂の奥には「聖一国師」の像がゆったりと鎮座している。
- 勅使門
- 天皇陛下の勅使をお迎えする勅使門は、普段は門がぴったりと閉ざされ、皇族の方々がこられたときにのみ開く。十六菊の家紋が重厚なたたずまい。
- 開山堂
- 普段は門が閉ざされ、限られたときにしか先に進むことができない(開山の像を祀った堂)。
- 山門
- 太平洋戦争時に焼失したが、1991年に復興。日常参拝のために開放されている。
- 聖福寺に眠る著名人
- 満田弥三右衛門(博多織の始祖、承天寺に碑がある)
- 川上音二郎(オッペケピー節で名を馳せた新派の創始者)
- 神屋宗湛、伊藤小左衛門(博多豪商)
この他、境内には、木造釈迦三尊像(国指定重要文化財)、絹本著色の禅家六祖像、高麗の銅鐘、完形の蒙古碇石、(県指定考古資料)等があるそう。
1563年以前に描かれたもの。中世博多の浜辺の様子。南側に松原、北側に海、松原の中の石垣は元寇防塁? 浜辺では大工が材木を加工している。

現存する塔頭
本寺の寺務を助けるために、修行を終えた人たちが住む「塔頭」。多くは消滅してしまいましたが、幾つは現在でも残っています。
- 円覚寺
- 福岡藩士であった立花実山直筆の「南方録」が伝承されている。
- 南方録とは、千利休が茶道の秘伝を高弟の南坊宗啓禅師に伝えた事を書き留めた書物。現在でもこの寺は、南方流の茶と禅の道場となっている。
- 1246年、大覚禅師(蘭渓道隆)が宋から大宰府へ来朝した際、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が大伽藍を矢倉門(現在の祗園町)に創建。戦乱により寺院は全焼したため、1636年に聖福寺の境内に基礎を移転して再建した。

- 虚白院(幻住庵)
- 1336年、無隠元晦による開山。那珂郡馬出村から、江戸時代に大賀宗九・宗伯父子により現在地に移転したので、宗九を開基とする。墓所には大賀宗九父子の墓がある。仙厓和尚が隠栖した。
- 節信院
- 1602年、荒木村重の家臣だった加藤重徳により創立。(加藤重徳:幽閉された黒田官兵衛(如水)を助けた縁で次男が黒田家の養子に。幕末には加藤家の加藤司書が福岡藩の勤王派の中心人物として活躍するが、藩が佐幕派に転じたため辞職し切腹)。加藤司書の菩提寺でもある。
- 順心寺
- 1361年、聖福寺第39代夢庵顕一禅師により開創された。
- 瑞應庵
- 聖福寺の境内の山門左手奥に伽藍を構えている。境内にキリシタンの石碑と元寇の碇石がある。1331年、開山は本源和尚。
- 【番外】本岳寺(聖福寺だった寺)
- かつての本岳寺は、聖福寺の末寺に属する禅宗の「本覚寺」だった。戦国時代の始め頃に住持していた僧「西昌」は、京都から博多に赴いた法華宗の日因上人と賭け囲碁を行う。勝ったのは日因上人。このため禅宗から日蓮宗に改宗し、山号を「西昌山」、本覚寺を「本岳寺」に変えたと伝えられている。博多の寺の中でも他宗からの改宗は本岳寺だけそう。
承天寺【粉物食文化の伝来の地】
「うどん、そば、まんじゅう」伝説
承天寺は1242年に臨済宗(禅寺)の僧である聖一国師によって開山されました。
聖一国師は中国から製粉の技術を持ち帰ったことから、饂飩(うどん)・蕎麦・饅頭などの粉物食文化や、ようかんの作り方が全国に広まったと言われています。
「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑は、ここがうどんや蕎麦、そして饅頭の始まりの地であることを主張しています。
「43もの寺があった」伝説と「承天寺でやらかした話」


承天寺は、勅許により官寺とされ、最盛期には43もの塔頭を有したと伝えられています。
ただし、現在残っているのは、乳峰寺、天興庵、宝聚庵、祥勝院の4寺のみです。
承天寺でやらかした話
承天寺が過去の姿を残していないのは、焼失や天災等のやむを得ない事情があってのことかもしれませんが、戦後の「失態」も今に伝わっています(これは伝説ではなく事実)
戦後、無防な都市計画を考えた役人は、寺の境内を真っ二つにして道路を作るという計画を立てました。しかし、工事が始まったところで気付きます。道路計画場所には、国の史跡である「聖福寺」があることを。
結局工事は打ち切り。承天寺の境内はぶっちぎられたまま、せっかく作った道路も通る車はまばら、という非常に中途半端な状態になっていました。
そして時は流れ2014年、中途半端だった道の入り口に「最初からこうするつもりでしたが何か?」といった顔で「博多千年門」ができました。門扉の板材には太宰府天満宮から寄贈された樹齢千年の楠が使用されるなど、歴史は浅いのですが、それなりに見ごたえのある門となっています。
「謝国明」伝説
承天寺創建の立役者となったのは、博多網首である謝国明(~1253年頃没、南宋人で日本に帰化)。謝国明は聖一国師の熱心な支持者で、私財をなげうって承天寺の創建に尽力したそう。
謝国明は博多の人々に愛され、死後に楠木を植えて祀ったことから「大楠様」と呼ばれています。8月21日には謝国明を偲んで干灯明祭が開かれています。
大楠様(謝国明の墓)はかつては承天寺の境内だった出来町にあります。
「山笠発祥」伝説
今では世界遺産(無形文化遺産)となった「博多祇園山笠」の起こりは承天寺だと言われています。
博多で疫病が流行した時、聖一国師が施餓鬼棚を弟子に担がせてその上に乗り、町中に聖水(甘露水)を撒いたところ、疫病が退散したとか。
現在でも、山笠のクライマックス「追い山」では、櫛田神社を出発した山車は承天寺の前を通り、袈裟をまとった僧侶たちが深々と頭を下げます。その姿は背筋がピンとなるような神聖な雰囲気を醸し出しています(テレビで見ても感動します)。
「僧侶と神主が交流する」伝説…ではなく今も続く事実「承天寺報賽式」
毎年1月11日、承天寺の僧侶が八幡神を祀る筥崎宮に宮参りする「承天寺報賽式」が行われます。
明治時代の「神仏分離令」による「廃仏毀釈」の動きから、各地で寺の仏像などが壊されてきましたが、神主と僧侶が公の場で交流するというのは、非常に珍しいことだそう。
事の起こりは、承天寺を開山した聖一国師が、宋での修行を終えた帰途に海上で嵐に遭遇した折に、八幡神の加護を祈願して無事に帰国できたため、筥崎宮にお参りしたことから。(もしかしたら、これは伝説かもしれませんが)
とにかく、1241年から続いてきたと言われるこの行事は、今でも毎年行われているのです。
東長寺【空海創建の最古の寺に、最新の見どころ】
「空海の最初の寺」伝説
奈良平安時代、博多は貿易が盛んで遣唐使の経由地としても栄えました。
その遣唐使の一人である空海(弘法大師)が「最初の寺」として創建したのが東長寺だと言われています。
806年、空海は唐での修行を終えて帰国しました。実は、当初の滞在予定は20年間でしたが、臨時船が出たことなどから、予定を大幅に繰り上げて2年での帰国となったとのこと。
ところが「早すぎるのでまだ帰ってこなくていい」と言われた空海。そこで、都に戻るまでの2年ほどを福岡(大宰府の観世音寺)で過ごすことになったそう。
当時33歳だった空海は、その期間に東長寺(東長密寺)を建立したのです。
東へ長く。
読んで字のごとく、それがこの寺の意味。
東長寺という名称は、真言密教が東方へ広がることを祈願してつけられました。
福岡から東、それは当時、そして今でも「都」を指します。
東方…それは博多に住む人々にとって、憧れ、そして未来のある場所、なのかもしれません。

古い歴史に新しい建築物
ぴっかぴっかの五重塔
まるで東長寺の象徴のように高くそびえる朱色の塔。
この五重塔が作られたのは2011年と、空海時代の歴史を考えると、とても新しい建築物です。
何だか「ありがたみに欠ける」気もしますが、これこそが「破壊と再生」を繰り返してきた、まさに福岡の象徴! 何度も破壊されてきた博多の町は、何度も再生しながらアップデートしていきます。そして、歴史は過去のものではなく、まさに今ここで息づいているものだと思えるのです。

福岡大仏にはすごい仕掛けが!
東長寺は、幸いにも空襲の難を逃れたため多くの寺宝が残されており、大仏殿宝物殿に収められてます。
中に入ると、福岡大仏が鎮座しています。見下ろさているような堂々とした姿。ちっぽけな自分の存在とは何なのだろう。悩みや心に抱いた悪しき感情ですら、大仏の前では小さく転がされている気になります。
木造座仏としては日本最大級の大きさを誇る福岡大仏、こちらも完成したのが1992年と、かなり新しいものです。
また、大仏の裏には「地獄極楽巡り」と書かれた小さな入り口があります。恐る恐る足を踏み入れてみると、細く暗い「死後の世界」への旅が始まります…。
死後の世界と地獄
地獄という言葉を簡単に使うこともある。けれどそれは、本当の地獄の怖さを知らないからだ。
子供の頃、地獄を紹介する絵本を読んだ。怖かった。それから何年も一人では眠れなくなった。地獄にだけは行きたくないと思った。
大人になって地獄のことなどすっかり忘れて生活していた。地獄の存在なんてあるわけがない。それよりも、金だとか仕事だとか災害だとか、そして人間だとか、怖いものはこの世に無限とある。目の前の苦しみに対処するだけで精いっぱいになるのだ。
地獄か極楽か、その裁きの瞬間は刻々と近づいているかもしれないというのに。
息苦しい「地獄」を通り抜け、ようやく外に出ると、思わず深呼吸した。
外の光は眩しく瞳を刺激する。まるで光の中に飲まれてしまいそうになる。
ああ、世界に戻ってこれた。まだ死んじゃいないんだ。
再び踏み出すその一歩の果ては、地獄か極楽か…
六角堂 「本瓦行基茸き」という珍しい屋根
境内には、六角形の屋根にオリエンタルな空気が漂う「六角堂」も。
扉は閉ざされて、普段は内部を拝むことはできませんが、弘法大師像ほか5体の仏像が安置されています(内部は「御供所ライトアップウォーク」のときなどだけ公開されます)
(福岡市指定文化財)
弘法大師像・不動明王立像(弘法大師作?)、本造千手観世音菩薩立像(平安時代に制作)、木造千手観音菩薩立像もあり、節分祭など年3回程度、公開されています。

東長寺に残されているもの
- 黒田家の墓
- 東長寺は建築後、焼失などで幾度か移転したが、福岡藩二代藩主「黒田忠之」によって現在の地へ移築され、以降、福岡藩主黒田家の菩提寺となった。二代藩主・忠之、三代・光之、八代・治高の基がある。
- 大師堂(聖天堂)
- 愛染明王や十一面観音などを安置する。屋根の美しいアーチ形状が見所。
- 弘法大師筆千字文
- 織田信長が本能寺の居間に掛けていたものを、島井宗室が炎上の間際に持ち出したと言われている。
- 本堂
- 重厚なつくりが圧倒的な存在感を感じさせる。そこに安置されている貴重な仏堂などを拝むことができる。
「節分の誕生の地」伝説
節分の日の「節分祭」では、一年間の幸運を祈っての護摩焚きや豆まきなどが行われ、例年三万人もの参拝客が訪れる。