福岡編【福岡の平野】大地から果てなく続くストーリー」

平野 福岡編

平野から生まれるストーリーは現在まで続く

水が引くと大地に平野が残された

航空図を見ると、沿岸地域(福岡平野)から筑紫平野にかけての内陸部が白っぽくなっており、平野や住宅地が広がっているのが分かります。

約7000年前頃の縄文海進時代、海面は現在よりも2~3メートル高かったといわれています(縄文海進)
やがて水が引いて、海だった場所は陸地(沖積地)になりました。気候も安定し、海水が引いた場所は長い年月をかけて、豊かな平野となっていきました。
縄文時代からさらに地形は変化しているため、現在の「白い部分」はすべてかつて海から平野になった、というわけではありませんが、縄文海進の後にはそれなりに広大な平野が残されたと思われます。

福岡市の平野に人が住みクニが作られる

福岡市周辺に限ると、目立つ平野は糸島平野、早良平野、福岡平野、そして筑紫平野です。筑紫平野をさらに南西へ下ると吉野ケ里遺跡があります。

これだけの広大な平野、豊かな台地には人が集まります。安定した暮らしは、爆発的な人口増加につながったと言います。

今から3,000年から2300年程前頃、大陸から稲や道具や金属が伝わり、狩猟と採集の時代から、農耕生活へと変化していきました。人々はそこに農耕集落を築くようなりました。

クニが生まれる

人が増えるとどうしても役割分担が生まれます。また、近隣の集団から、収穫物などを狙って襲撃されることもあったかもしれません。自然と「統率する人」「従う人」という立場が明確になっていったでしょう。

こんな感じで「クニ」が生まれ「王」が誕生した…ということは、歴史の教科書の最初の方で習いました。

現在でも、何らかの「グループ」とか「組織」があれば、自然とこんな風に立場や役割が生まれます。学級委員やリーダーになる人、ただ従うだけの人、縁の下の力持ち的存在…いつしか自然と皆、役割を自認していきます。

二度と戻れないあの時代から今へ

やがて、稲作により、人々は安定した穀物を得られる生活になり、気候も和らいで、心のゆとりも出来たのかもしれません。
暮らしやすい場所に人が集まり、ムラがマチが造られ、現在へとつながる「社会」が誕生したのです。

山に入っては動物を追い、木の実を探し求めていた時代の終焉です。

時代が変わった…という言葉、今もよく聞きますが、縄文時代から弥生時代への変化は、最も大きな変化だった気がします。
当時はもちろん、暦も元号もないし、変わったといっても「昭和と令和の変化」のような短期間での変化ではなく、恐ろしく長い時間をかけての変化だったので、明確に「変化」を感じた人はほぼいなかった気がしますが。

その舞台となったのが「平野」(クニづくりがしやすい地域)。

この変化は遺跡の立地の変化に明確に表れているといいます。
縄文時代晩期には、河川の上流や山間部を中心に遺跡が分布していますが、弥生時代早期になると河川中流域・下流域に遺跡が移動しています。

ここ掘れワンワンでお宝ザクザクの福岡平野

福岡市周辺の平野は(福岡だけではありませんが)、それぞれそれなりの規模を持った「クニ」だったと言われています。
これだけの豊かな土地があるので当然でしょう。

糸島平野には「伊都(いと)国」福岡平野には「奴(な)国」早良平野は「早良(さわら)国」、そして筑紫平野にも巨大な国があったとされています。

これは、単に「広い平野だったから」ではなく、複数の遺構や遺物が発掘されていることからも証明されています。

北部九州は大陸との交流とも盛んだったため、お宝もザクザク埋まっており、今でも福岡で何かを建築する際には、入念に発掘調査を行っているとか。

これらのクニがどのくらいの力を持っていたのか、どんな社会を築き、どんな生活を送っていたのか、古代史の謎の一つ「邪馬台国」と福岡はどんな関係があったのか…

何かが発見されるたび、あれやらこれやら推理は膨らみますが、本当のところは今のところわかりません。
それでも、平野を囲む山を背景に大地に立つと、古代からのパワーを感じるのです。