福岡編【漢委奴国王】金印をめぐる真実もしくは噓

金印 福岡編
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文字から金印の謎を解く

最古の文字記録には福岡のことが書かれていた?

日本で文字が普及し始めたのは六世紀ごろだといいます。
それまでの日本についての記述は、中国や朝鮮にしか残されていない(「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」「梁書倭伝」「北史倭国伝」)のですが、その中で最古の文字記録は、福岡について書かれたものです。
それは「後漢書」。その中の「東夷伝」の巻に日本の様子が書き残されているのです。

ここに登場する「倭の奴国」とは福岡のことで、使者が金印をもらった、というのが現在の解釈のひとつです。
漢では印の材質によって印綬の格付けがされていたそうですが、外国の王には金印が授けられていたとのこと。奴国に官職を与えるために金印を与えた、と言われています。

恐らく奴国の他にも国はあったでしょう。ただし今となっては、その名も場所もわかりません
唯一奴国だけが文字でその存在が記されているのです。

「後漢書 東夷伝」には本当に真実が書かれているのか?

ところでこの「後漢書 東夷伝」は、奴国の使者云々という時代から、実に400年ほども時を経た、5世紀の宋の時代に記されています。
つまり、最近見聞したことを、見聞した人が書いているわけではありません
となると、怪しくなってくるのが信憑性

だから、文字や書物に絶対的な信頼を置くのはちょっと危険です。誰かが作った適当な話を適当に文字にした、ということも考えられます。
しかもはるか昔の出来事。
極々一部の人たちしか扱えなかった文字というテクノロジーが、何らかの状況を有利にするために虚偽の記述をした可能性も十分考えられます。

…と思っていたら、奴国に関しては、なんと物的証拠があったのです!

文字情報だけだった金印、本当にあった!

「文字」の「証拠」が見つかった!…かも

その物的証拠とは、後漢書に記載されている金印

それは、ある日突然見つかりました。
場所は福岡市の北側にある志賀島。時は、1784年(江戸時代)のこと。志賀島で農作業中の農民が、偶然「漢委奴国王」の文字が刻まれた金印を発見したのです。
漢委奴国王(漢の倭の奴の王)、まさにこれは、東夷伝の記述そのままではありませんか!
奴国に金印が送られたとされる、西暦57年から1700年以上も経て、金印はこの世に再度現れた…

後の誰かが作ったという説も出たそうですが、鑑定を行った結果、西暦57年当時の材料で作られたことが判明しているそうです。

後漢書の文字と金印、この2つが揃ったからと言って、絶対に「金印は奴国の王のものだ」と決めつけることはできません。また、実は後漢書に書かれている以上にすごい出来事があっても、それを記した書物が紛失してしまっている可能性もあります。

けれど、少なくとも現時点では他に何も発見されていないので、いつの日か決定的な「証拠」が歴史を覆すまでは、「日本についての最古の記述は奴国(福岡)についてで、記述通り金印も見つかった」ということにしておきましょう。

志賀島の金印
志賀島 金印公園

金印が伝える本当と、噓かもしれないけど信じたいこと

福岡市博物館で本物に金印を見よう

金印は今、福岡市博物館にひっそりと眠っています…というよりも、常に衆人環視の中にあります。常設展示室の、最も目立つ場所に置かれているのです。
会社の角印くらいの「普通の」印鑑です。
というより、2000年前に存在していた印鑑の形が、令和の今でも使われていることに、今更驚いてしまいます。

かつて、王としての権威を与えた金印は、今でも福岡市に「国宝」という権威を与えています。

福岡市博物館には、広い前庭に古墳を模した巨大な池があります。
今のような鏡がなかった頃には、水面に姿を写して自分の姿を確認していました。
だから、少し影になった自分の顔しか見たことがなく、初老を示す縮緬じわや日に焼けた肌の色、二重の線の細い影などを、しみじみと自分自身で確認することはできなかったかもしれません。
完全な姿を自分自身で知ることなど、一生なかったでしょう

完全な自分のこと、完全な世界のことを知るのは今も不可能です
だから、いくつかの頼りなげな証拠に意味をつけ、物語を完璧なものに近づけていこうとするのです。

文字、遺跡、遺物を通して過去と未来を覗き見る

文字だけが過去を語るものではありません。
いくつかの遺物や遺跡が当時を物語っており、そこからおおよその見当をつけます。人々が食べていたもの、使っていた道具、信じていた存在、寿命や体格、それらが過去の遺物からうっすらと浮かび上がります。

遺跡や遺物はいくつも発掘されて今に何かしらのメッセージ送っています。それらは今を生きる人々が過去を覗き見るための双眼鏡のようなものです。

今日、伝えられ、私たちが信じている歴史は、ほとんどが断片的な「残骸」を組み合わせ、何とか辻褄を合わせようと努力した結果です。完全な真実は、永久に時間の分厚い扉の向こうに閉ざされたまま、かもしれません。