福岡平野には、縄文時代から弥生時代の痕跡がたくさん残っています。
この時代の代表遺跡と言われる板付遺跡をはじめ、そのすぐ側には比恵、那珂、諸岡、金隈遺跡、そして平野を南下した場所には「奴国」の可能性がある須玖(岡本)遺跡など、平野はこの時代のニュータウンだったようです。
稲作なら福岡平野!居住なら福岡平野!クニづくりなら福岡平野!
といったところだったのではないでしょうか。
福岡平野から歴史が始まる
弥生時代(約3000年前)に日本に稲作が伝わり、生活が安定してQOLがぐんと向上したと言われていますが、そのはじまりは福岡から。北部九州は大陸からのアクセスが容易で、地の利を得て、大陸から稲作をはじめとする文化が一早くもたらされました。
広々とした平野と水があるところを中心にムラ(クニ)作りが進んでいきました。
当時の福岡平野は、今よりもかなり内陸まで入り江だったと言われています。
今の海岸線から板付遺跡までは若干距離がありますが、近くまで海が入り込んでいたことも考えると、船を使った「交通の便」もよかったのでしょう。
今でも板付には空港があり、世界的に見ても、空からの交通の便も大変よいのです。
福岡平野、わけても板付辺りは宿命的に「便利」という役割を与えられているのかもしれません。
福岡平野の古代遺跡

板付遺跡~最古ではなく最高の遺跡
板付遺跡は弥生時代の代表的な遺跡、と言われるが…
弥生時代、人々は堀で囲んだ環濠集落(堀や柵で囲まれた集落)を作り、稲を育て、日々の暮らしを営んでいました。
福岡平野にある板付遺跡は、初期の水稲耕作が行われた弥生時代の代表的な遺跡。
ただし最古ではなく、板付遺跡よりも古い稲作遺跡は他にあります(環濠遺跡としては、福岡県粕屋町の江辻遺跡が、水田としては佐賀県の菜畑形跡がより古いとされる)。
しかし、「古い」ことが板付遺跡のすごさではありません。
板付遺跡はここがスゴイ!


- 板付遺跡は古代遺跡の見本市
- 板付遺跡は水田の跡だけでなく、集落や墓地の形跡も残され「農業集落」としての数少ない遺跡の一つ。
- 板付遺跡は時代の見本市
- 主に縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡ですが、旧石器や縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の遺物(押型文土器)、加えて古墳~中世の遺跡も発掘されている。(弥生時代の層の下層から、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の押型文土器が出土)。
- ロケーションが抜群!
- 御笠川が近いので水が豊富、「駅近」ならぬ「川近」な土地は、稲作に便利! 標高12m程度で低すぎず高すぎず。洪水にも耐えられる。
- 環溝周辺だけでなく広範囲に集落があった(貯蔵穴群や墓地の跡あり)
- 板付ニュータウンのムラづくりは高度な土木技術がもたらした
- 低台地上の環濠集落と周辺の沖積地に水田が広がっていた。
- 少し離れた位置には墓地。
- 幹線水路、水をコントロールするための井堰、取排水溝、畦畔、水田には水口(水尻)などの設備も。
- 台地上には、広く深い溝(環溝)が、東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらされ、環溝の内外には竪穴(貯蔵穴)が多数掘られ、米や各種食料の貯蔵もバッチリ。
- ニュータウンの拡大
- 弥生時代前期末には、北部九州で有数の集落に発展する。
- 甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土し、有力者もいたはず。
- 国際交流もこの時代から盛ん
- 土器、石器、本器をはじめとする莫大な量の出土遺物に加え、朝鮮からもたらされた木棺、銅鏡、副葬品などがわんさか出土。
最古ではないけれど、「ここに来れば弥生時代の全てが分かる!」といった板付遺跡は、「最高の」遺跡だと言えるでしょう。
当時の生活をイメージさせてくれる資料館。
板付遺跡では、広場に竪穴住居が復元され、当時の生活が体感できる(復元されている住居は、江辻遺跡などの同時期の住居址を元にした「イメージ図」のようなもの)。
那珂遺跡~都市計画で作られた大通りがあった
- 板付遺跡(弥生時代初頭の環濠集落)より古い、縄文時代晩期末の二重環濠集落跡。
- 旧石器時代の黒曜石製の打製石器、また巴形銅器の鋳型(吉野ヶ里遺跡、九州大学筑紫キャンパス内遺跡に次いで3例目)が出土。
- 那珂八幡古墳をはじめ、東光寺剣塚古墳、剣塚北古墳などの前方後円墳が築造され、初期古墳の特徴を持つ。古墳時代の層からは三角縁神獣鏡の出土なども発掘。
- 3世紀頃の「都市計画」によって造られたとみられる国内最古の道路跡(幅7メートル・南北へ1.5キロ以上の直線)が見つかっている。
- 甕棺の中から細型銅剣、銅矛各3本が発見され、有力者が台頭していたことが推定される。


2000年以上昔から栄えていたこの場所、時をずーっと隔て、しばらくは福岡の「青果市場」として活躍していましたが、2022年、古墳を彷彿とさせる巨大なオブジェと共に、再び賑わいの場所として復活しました! その名も「ららぽーと博多」、オブジェとは機動戦士ガンダムの立像。。福岡の土地は埋め立てや自然の流れで大きく変化した部分もありますが、「賑わう力」はこの土地の持つ力そのものだと思うのです。
比恵遺跡~宮家があったって本当?
- 旧石器時代から室町時代にいたる複合遺跡。
- 石錘や貝輪、貝塚といった漁労遺構と農耕遺構が混在。
- 墳丘墓の甕棺墓には銅剣が副葬され、青銅製品(銅剣・銅矛)やガラス製品の生産を想定される鋳型や取瓶などが出土。
- 甕棺出土の銅剣に付着した絹は、日本国内最古の絹織物である。
- 剣塚古墳
- 比恵遺跡の南側にある6世紀中頃に造られた前方後円墳。
- 石室には熊本北部から筑後に分布する石屋形と呼ばれる遺体を安置する施設があり、それらの地域との関連も? 三重の周濠、石屋形、形象埴輪なども、この地域では特異なもの。
- この古墳の築造から集落が拡大され、倉庫群などが造られるようになる。
- 古墳時代後期(6~7世紀)に建てられた総柱建築の高床倉庫群跡を中心とする遺跡は、「日本書紀」宣化元年(536年)の条に記述されている「那津官家」に関連するものと考えられている。
金隈遺跡~墓地から古代人の顔が見える
- 弥生時代前期の中頃(紀元前2世紀)~後期の前半(2世紀)頃の遺跡で、共同墓地の遺跡(甕棺墓遺跡)。
- 土壙墓(119基)、甕棺墓(348基)、石棺墓(2基)が発掘。甕棺墓からは136体の人骨が出土し、縄文人よりも身長が高く顔も面長になっていることから、朝鮮人との混血が行なわれていたと考えられる。
- この遺跡が明かす古代の状況
- 墓の副葬品には、種子島からオーストラリアまでの海中にしか生息しない「ゴホウラ貝」製の腕輪、石剣、石鏃、首飾り用の玉なども海外の「お土産」も発掘。
- 磨製石鏃を手に持つ人骨が発掘。漁労民と農耕民という両面を持った人々がいた?
諸岡遺跡~旧石器からの長い歴史
- 旧石器時代、縄文時代晩期、弥生時代前期末~中期、中世後半の複合遺跡。
- 弥生時代の遺構小竪穴、貝輪や細形銅剣を副葬する甕棺墓、遺物(釣針や貝輪、細形銅剣を副葬する甕棺墓、朝鮮系無文土器)が検出
古代から様々なものがもたらされ、生活を少し作り上げては、様々な要因によって壊され、そしてまた再建していく…。
福岡は破壊と再生の町。常に時代の荒波に振り回され歴史をつなげてきました。
平野とはいえ、かつては完全な平らではなく、あちこちに丘や谷のような凸凹もあったことでしょう。木々が生い茂って視界を遮り、「平野」といって想像するような、まっ平らな大地ではなかったかもしれなません。
今では丘陵地も均され、山が削られて、フラットな土地が続いている福岡平野。
アスファルトの大地にはひっきりなしに車が行き交い、道路の両脇には建物が立ち並び、ここにあった古い時間を覆い隠してしまいました。
この先、100年後、1000年後、3000年後の未来には、この地はどうなっているのでしょうか。
どんなに風景が変わっていても、古くから繋いできたこの大地が持つパワーは変わらない気がします。