ある日突然、歴史に目覚める
歴史に興味がなかった過去
歴史に興味がある人は多く、大河ドラマは何だかんだ言って人気だし、歴史上の偉人にゆかりのある土地も観光名所として賑わっています。
けれど筆者は、それほど歴史が好きだというわけではありませんでした。
受験のために必死で知識だけは詰めこみましたが、興味を持っていたわけではありません。有名な事件、人物、そして時系列、どれもあやふやだし、知ったところで「何が面白いんだろう」と思っていました。
正直なところ、歴史的価値のある場所を訪れても、心からの感動を得ることは少なかったのです。
歴史の意味を考えてみたら…
そんな筆者でしたが、突如歴史に興味を持ち始めた出来事があります。
出張ついでの短い観光旅行をした時のこと。時間の関係で立ち寄ったのが、お寺とお城。短い時間で行ける場所として、テーマパークのようなところでなく、歴史的な名所旧跡を選んでいました。
歴史にさほど興味がないとはいえ、お寺やお城は「古い場所」というだけで、なんだか価値ある気がします。それは、「エル〇ス」のロゴが入ったバッグと似た感覚で、真価はわからずとも「価値があるらしい」と思いながら、何となくありがたく感じているだけのようなものでした。
ただ、ふと思ったのです。
私は、城や寺に何を期待しているのだろう、と。
ある日突然、誰かが「ここに城でも作るか」と思って築城したり、「寺があったら観光客が来るかも」と立派なお寺を造ったり、というわけではないはず。
そういった建造物が、「あの日、あの時、あの場所で」作られた理由が、必ずあったはず。
ラブストーリーなら突然でもよいですが、歴史的建造物はそうではない。
それを考えていると、歴史的遺構はただの石や木材ではなく、かつての人々の営みの痕跡だと気づきました。今は「碑」くらいしか置かれていなくても、地層や地名、文化の中にも、痕跡は残っています。

歴史は、単なる「年号」とか「偉人」とか「出来事」ではなく、確かにここに何かが存在することの、痕跡であり、時間。
過去という時間が確かに存在していたことを知ること、それが歴史の楽しさ。
歴史の跡を訪れることは、ちょっとしたタイムスリップです。
そうか。タイムスリップすることを、私は期待しているのか!
それがわかってからは、歴史が俄然、面白くなりました。
そして、千年とか二千年とか、もっとはるか先の未来に対する痕跡を、今の私たちが残している…自分自身も歴史の中にいるという事実も改めて感じ、歴史は突然身近になったのです。
歴史は知れば知るほど不思議だらけ
歴史はファンタジーでミステリー
歴史を学べば学ぶほど、疑問は次々と湧き上がってきます。
「なぜ人はそのような行動をとったのだろう?」
「なぜこの出来事は起こったのだろう?」。
それらの問いだけではありません。
そもそも、私たちが知っていることは事実なのでしょうか?
それが最大の謎です。
歴史として語られるものは必ずしも真実を反映したものではありません(「教養」のひとつではありますが)。
勝者によって作られた歴史、時代背景により脚色された物語、そして伝承やフェイクさえも歴史。

真実は都合よく書き換えられ、伝えられたり、歪んだ解釈が蔓延したりする状況は、過去も同様だったでしょう。敗者は破壊され滅ぼされ、争うことのできない時の波がすべてをさらって行ったかもしれません。
けれど、少なくとも何らかの伝承があるということは、それが生まれた理由は必ずあるはず。
歴史を知るとは、情報の海の中から、かすかな真実の手がかりを探し出す作業でもあります。
けれど、永遠に真実にたどり着かなくても、あれこれと自分なりの推理をする作業も楽しいのです。
嘘か本当か知りえない、そんな歴史の魅力にまた堕ちる…
私たちは、そんな曖昧な空気の中で、過去と現在を結ぶ細い糸をつかむために歴史を楽しむのだと思います。
書き換えられる歴史、歪められる事実
歴史を解釈することは容易ではありません。
現代でさえ情報は簡単に歪められ、真実は見えにくくなっています。
一人一人の個人的な感情が事実を好き勝手に歪めていく。そうしてさまざまな恣意的なものにさらされて、原石であったはずのさまざまなものは一切合切取り除かれ、「事実」は不自然に磨かれ残っていく。
それでも、歴史の痕跡を追うことで、そこにあった真実を少しずつ掴むことができます。
また、人の感情や価値観は時代とともに大きく異なります。
例えば、古代人の感情は現代人には正確に読み解けません。
私たちが「苦しい」と思うことが、かつては当然だったかもしれません。人を殺めること、愛すること、支配すること、嘘をつくこと、嬉しいこと、辛いこと……。労働時間が長いことを「拘束」だとして憤慨する私たちには、古代人の労働の意味は理解できません。
現代では当たり前となっている価値観や生活様式が、過去にはその概念すら存在していません。
歴史の不思議は概念の不思議です。そうした隔たりが、歴史の謎をさらに深めていきます。歴史のミステリー性にはまれば、どんな推理小説も陳腐に思えるほどなのです。
空から見た足元のストーリー
さて、この時代に歴史を学ぶことができて本当によかった、と思うことの一つは、航空写真を簡単に見ることができることです。
歴史や出来事は、地理が大きく影響しています。
「こんなところになぜお城?」「こんなところでなぜ戦さ?」と思ったら、航空写真を見ると解決することも多いのです。
歴史は人が作っていくもの、という印象もありますが、それ以上に地理や気候に翻弄されている部分がとても多いことに気づきます。
もちろん、過去と現在では地形も変化している部分もあります。けれど「高い場所は高い場所のまま」など、意外と変わっていない部分も多いのです。
そんなことを発見できるのも、文明の利器(Google Mapなど)のおかげ!

地形の起伏や川の流れがかつての城郭や集落の位置を示していることがあります。古い地図と現代地図を重ね合わせることで、見逃していた歴史的痕跡が見えてきます。
歴史とは過去の時間の中に封じ込められたもの。しかし、その過去に触れることで、私たちは未来につながる痕跡を残す存在であることに気づくのです。
私たちは、目には見えなくても、何層もの過去の上に立って生きていること、歴史の足跡から、そんなことを感じるのです。

